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人の生活と問題解決

構造が問題なら人には問題がないのかと言われると、どうではないと思う。力を握っている悪い人もいたとしても、その人に力を渡している人々に支えられて構造が成立している。本当に人々が力を結集して仕舞えば、どんな人からも力は奪えるので、その人が力を持つことを容認しているとも言える。

一方で、日本のような状況での問題の多くは古くなってしまったシステムをどう新しくするかが多い。ところが、一度でも古いシステムが出来上がったということは、そこに人が介在していて、それで食っている人がいる。つまり日本型の問題の解決を本気でやると、一時的に誰かの営みが奪われることになる。

日本型の問題は、私腹を肥やすための積極的な悪というよりは、変化に抵抗する受け身の悪が多いように思う。社会問題の蓋を開けてみると抵抗しているのは悪の大王ではなく、家のローンを抱えて家族もいる俺の私の生活を奪うのかという市民の抵抗があることは少なくない。

問題の奥に巨悪がいるのであれば、市民を守る人は積極的な正義の味方であり悪を倒して改革をする人になるが、問題の奥に権益で生活をしている市民の集合体がいるのであれば、むしろ市民を守る人は既得権益を守る保守派になる。日本はどこかの点でバランスが前者から後者に変わってしまったように思う。

同じ市民なら比較的やっつけても良心が痛まないのは、豊かで地位が上で実際にはよくわからないけれど美味しい思いをしていそうなイメージがある人々だ。こうして、社会の怒りは上に向かいやすい。日本では成功する人は人に言えない何か何かわるいことをしているはずだという物語が信じられている。

じゃあ、批判は意味ないのかというとそれはとても大切なことだと思う。ただ、ストレス解消ではなく本当に問題を解決するための批判は、調査を続け、構造を紐解き、わかりやすい構図におとさないような忍耐がいるので、時間と労力がかかる。何より勧善懲悪でない状況を人はストレスに感じる。

古くなったシステムを一度壊して、新しいシステムを作った方がいいというのはみんな気づいていながらも、その壊すときにしわ寄せを受けるのは一番困っている人たちで、その人たちになんとかしわ寄せがいかにようにしながら、変えていくという曲芸的なやり方が求められているように思う。

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