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無観客試合と、シャーマニズム

無観客試合が続く。これは現在の特殊な状況では仕方がないし、悩みながら難しい決定をされた皆様に敬意を表する。さて、ところで観客とはスポーツ観戦においてどのような役割を果たしているのだろうか。観客は試合を観察している切り離された存在か、それとも試合を構成する一部分なのか。

観客と選手の関係を考える時、私はいつもシドニー五輪でのキャシー・フリーマンを思い浮かべる。原住民族の血を持ち、オーストラリアを一つにする象徴として地元最注目の選手だった。オーストラリアの人は足踏みをして選手を応援する。決勝でフリーマンがスタートを切った途端、競技場が足音と歓声で揺らいで隣の人の声も全く聞こえなくなった。最後の直線でフリーマンが出てきた時感情は最高潮に達した。

フリーマンは優勝した。ゴールして数十秒ほどだったろうか。私には1時間にも感じられたが、歓喜する観客たちの真ん中でぽつんとフリーマンだけが放心状態で座り込んで空を見上げていた。まるで抜け殻のように。私はあの瞬間に極限状態で選手を走らせているものは一体なんなのかという強い興味を抱いた。

土着宗教などの祭りでは村人それぞれが囲む中に一人神の化身(シャーマン)が現れ踊ることが多い。シャーマンはだいたい化粧をするか仮面を被っている。身体的には踊っているのはその人ではあるが、次第にシャーマンはトランス状態に入ると、仮面の向こうが何者なのか分からなくなっていく。踊らせているのはなんなのか。その人自身の意思なのか、はたまた場の空気がその人に踊らせているのか。

スタジアムの中は弓と禅の中で言及される、主客一体の感覚に近いのかもしれない。選手が観客を魅了しているのか、それとも選手が観客の権化となって走っているのか。興奮し切ったスタジアムで時にそのような主客逆転が起こる。観察者の不在と言ったような、一体の空気。

私の感覚では観客は観察者ではなく、その場を生成するための重要な一部だった。だから観客がいない競技場は関係性が変わってしまい別物になる。オリンピックが持つ特徴は、選手が中心のようでいて本当の中心は場の設計にある。選手も観客も運営者も一部分となり、そこに祝祭の場が現れる。

フリーマンはあのシドニー五輪を境に、全く走れなくなり静かに引退した。彼女の中にはあの時の感覚はどのように残っているのだろうか。選手はゾーン状態で観察する自分の不在が起こる。シャーマンのトランス状態もだ。その時自分を走らせているものはなんなのかという問いが無観客試合を見ていて浮かんでくる。

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