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理系とそれ以外の世界の教育観

教育には将来食っていけるスキルを身につけるという目的がある。私はあまりこの方向を強めすぎるとただの職業訓練所になりはしないかと懸念はするが、それでも大事な目的の一つだ。将来必要なことは何かを議論する中で、理系の人生とそれ以外の人生では、教育観が異なっているのではないかと疑問を持った。

私の人生は理系も文系もないだろうという世界だったが、一応は文系に属するのだろうと思う。私も含め周辺も昔とは社会は変わってしまったと感じている。この変化の激しい時代に一体どのような教育を選べばいいのだろうか。今通用したものは将来通用しなくなる可能性がとても高い中、何が必要とされるのだろうか。

しかし理系の友人はその観点であまり教育を語らない。将来はどうなるのか、どのような教育をするべきかをさほどは気にしていない。それよりも基礎となる数学や、興味のあることをやるべきだと語る。それを自分なりに分析してみると、理系の世界には二つの大きな特徴があるのではないかという仮説を持った。普遍性と、好奇心だ。

理系の友人の人生は、好奇心でできている。好奇心を優先して人生が展開されている。もちろんその中で社会に役に立つことは何かを見つけ落とし所を選んでいるのだけれど、役に立つから学んだわけではなく、学んでいる先に社会があり接点を見つけたという順番だ。

もう一つ、理系の世界は法則が変わらない。真実はどうあっても真実で、それを追求していく上で必要な知識もまた変わらない。実社会への適応前提の世界と違い、理系の世界は真実への掘り下げの後に実用が来るから、社会の動向を気にするのはずっと後になる。

わかりやすい話で言うと、友人の理系の人間はさほど学校選びに拘らない。話を聞くと、内から出る好奇心と、それから基本的な数学の力がつけばいいと思っている。一方、それ以外の人間は未来予測をし、何が普遍で何が時代の流れかを見極め、適切な学校を選ぼうとしている。この違いをとても感じる。

友人の言葉では、少なくとも公立校のレベルでは日本の数学のレベルは高く一年海外に留学したときに英語はうまくなったが、むしろ数学が置いていかれたことを後悔していた。日本の公立校の評価も、理系的な世界とそうではない世界で分かれている。教育に何を求めるかで随分風景が違うのではないか。

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