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できるだけ小麦をこぼさずに

古文や漢文はいらない、という意見を目にした。 一方でそれに対する反論もあった。生きていく上で考えさせるものがたくさんあり、教養としての古典は必要だ、というものだった。

僕も古文や漢文は必要だと思う。そしてそれが教養に関わるのも分かる。 しかし、その「教養」の定義がなされていない気がした。

教養:学問・知識を(一定の文化理想のもとに)しっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。

意味を調べてみても、やはり曖昧な気がする。

僕は、教養とは「原典に触れる機会」と考えている。 実際のデータに触れることの重要性をのべた『FACTFULNESS』はベストセラーだが、まだ読んだことはない。財布が心もとないから。

それはさておき、実際のデータである事実は歪められやすいことを述べるこの本の内容は正しい。この本によると、人間には10の本能があり、その本能のせいで事実を間違えて捉えてしまうらしい。実際に僕もそのテストを解いてみたが、4問ミス。間違いが多かった。 実際のテストは以下のリンク参照。https://factquiz.chibicode.com/

『FACTFULNESS』はデータの重要性、だったが僕はこれは「実際のもの」つまり原典というものに置き換えても良いと考える。

松尾芭蕉の『奥の細道』は有名だ。月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり、という冒頭を知っている人も多い。僕はそれに元ネタがあることをつい最近知った。気まぐれで買った角川のビギナーズクラシックスのおかげだ。なんとも恥ずかしいが……。

しかし、考えてみると松尾芭蕉も『奥の細道』も李白も知らなかったらそもそもこの確認は行われなかった。古本屋で適当に本を眺めていて、『奥の細道』が目に入った時、冒頭のリズミカルな文章を思い出したから手に取ったのだった。

英語の文章などを目にしてもだいたいの意味が分かる。英語を多少なりとも勉強したからだ。学問の機会を与えてくれた両親に感謝してしまうのだが、語学に限らずこうした知識の連鎖というものは思わぬところからやってくる。原典に触れることによって、新しい知識を得ることができる。知恵の何たるかを読むことによって学べ、ということだろう。

言い換えれば、学ばなければそうした知識の連鎖が少なくなっていく、ということだ。学びの機会を減らすのに賛成できるはずがない。しかも、連鎖のない知識、というのは危険だ。 谷川俊太郎の詩『生きる』には「生きている、ということはかくされた悪を注意深くこばむこと」という一節がある。この一節は、知識の歪みが多いことを警告されているように思えてくる。

最近読んだ雑誌で「女性天皇は歴代天皇のうち8パーセントも活躍していたから法律を変てもいいい」と結論づけた内容があった。126代続く天皇家をあげて数値としてあげて、そういう結論を出している。 しかし、僕はその結論に疑問を持っている。6番目の孝謙天皇から7番目の明正天皇まで1000年近い開きがあったからだ。孝謙天皇は皇族家ではない道鏡に天皇の位を譲ろうとして失敗している。それからの1000年には何か意味があったのではないか、と思う。 天皇制の決まり事は、政治色が強くなる。ある考えに対して同調者を増やし、自分の都合の良いように体制を変えることを狙う。こうした「悪」を注意深くこばむことは、やはり道鏡の歴史を学んだという”教養”にあるのだと思う。

実は、この天皇制について述べたのは『FACTFULNESS』の内容を伝える雑誌の中で行われた。実際のデータの重要性を説明しながら、実際の歴史の内容を無視しているのは皮肉なのか故意なのかは分からない。

小麦はこぼれてしまうのか、それともわざとこぼされているのか分からない。どちらにしても、その事情をわざわざ見えなくしてしまうような行為を僕はしない方が良いと思う。之を知らしむ可からず、は孔子の言葉だが、世の中の原理を説明する必要はないとあなどられるのは僕はくやしい。だからできる限りは学んで生きたい。できる限り学ぶ、ならば教養は必要だし、古文や漢文や英語の文法も必要になる。

できる限り、こぼさずに生きていきたい。

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