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【解説】 語り直した、その先に、あらわれるもの──新海誠『小説・秒速5センチメートル』

2012年10月に「MF文庫ダ・ヴィンチ」レーベルから刊行された、『小説・秒速5センチメートル』の巻末に寄せた解説です(当時は「小説」の後に中黒がありました)。

『小説・秒速5センチメートル』は、アニメーション監督・新海誠の小説家デビュー作だ。脚本・監督を務めた劇場用商業アニメ第二作『秒速5センチメートル』(二〇〇七年三月公開)を、自らの手でノベライズ。全三編の連作短編形式はそのまま、ストーリーだけでなくビジュアルをも言葉で再現しつつ、小説ならではのさまざまなマジックを振りかけている。

 アニメを観ておらず、この文庫で初めて本作に触れるという人に、注意を喚起しておきたい。劇薬注意。読めば感情があふれ出して、たまらなくなることでしょう。

「ページをめくる手が止まらず、時間を忘れて一気に読んだ」といったアオリ文句ほど、この小説にふさわしくないものはない。きっと、読みながら何度も手が止まる。そこに記された状況、ひとつの仕草、ひとつの台詞、ひとつの言葉をきっかけに、自分自身の記憶のスイッチが入り、脳内スクリーンに走馬灯が上映されることになるはずだから。そうして、たまらず本を閉じることになる。走馬灯を味わうために。胸の痛みを鎮めるために。

 アニメは一度上映(再生)されれば、強制的に作中時間が前に進む。けれど小説は、読者が自らの意思で文字を追い、自らの意思でページをめくらなければ、作中時間は進まない。七〇分のアニメを七時間かけて観ることはできないが、小説ならばそれができる。だから焦らず、一行一行じっくりと。ふわふわのオムレツを作る時、なるべく空気を入れるようにして卵をかき混ぜるみたいに。虚構の世界に、現実の空気を取り入れながら読み進めてほしい。その時、この本が、あなたにしか読み解くことのできない、思い出のアルバムになる。

 アニメは観ているけれど、小説版を読んだことはなかったという人ならば、無数の驚きと直面することになるだろう。音と映像ではなく、ただ言葉だけで語り直される時、同じ物語がまったく異なる姿で立ち現れる。アニメでは映されなかった登場人物達の心を、もっと知りたい。もっと寄り添いたい。そう願う人には、この一冊はうってつけだ。

 これは初恋の物語だ。全三編を貫いて登場する人物がいる。遠野貴樹。

 第一話「桜花抄」は、「今」の彼が、「あの頃」の彼を思い出す、回想形式で語られていく。小学四年生の頃に同じクラスで出会い、惹かれ合った篠原明里。「ねえ、まるで雪みたいだね」。秒速五センチで落ちていく桜の花びらを、そんなふうに表現した明里の言葉に、初めは共感できなかった。しかし、中学一年生の冬にその言葉を耳にした時、「『そうだね』と、僕は答えた」。その時、ふたりはパーフェクトだった。

 第二話「コスモナウト」では、種子島に引っ越しした後、高校生になった貴樹の姿が描写される。「これほど強く何かを知りたいと求めたことは人生で初めてで、私はもうその瞬間に、宿命的に恋に落ちていた」。視点変換。彼に五年間の片思い、初恋をしている同級生・澄田花苗の物語が始まる。

 ところで、最新長編アニメーション作品『星を追う子ども』(二〇一一年五月劇場公開)のパッケージ盤ブックレットで、新海誠はインタビューに応えこう語っている。

「言葉にしてしまうと抜け落ちるニュアンスもありますが、しかし敢えて言えば僕の作品に共通するテーマは“喪失”です。それは誰の人生にとっても避けることのできないものだからです。どんなに愛しあっている二人にも最後には死別が訪れますし、そこまでいかずとも生活の中で大切だと思っていた人と会えなくなってしまうことは誰にでもあり得ます。でも喪失は、たぶん、乗りこえなければならない。そのための方法はきっといくつもあって、今までの僕の作品も形を変えてその方法を考えてきたつもりなんです」

 インディーズ時代の『ほしのこえ』(二〇〇二年)では地球と木星、メジャー第一作『雲の向こう、約束の場所』(二〇〇四年)ではこの世界と夢の世界、そして『星を追う子ども』では地上と地底世界。新海アニメはファンタジー要素=男の子と女の子を引き裂く虚構を導入することで、「喪失」を作り出す。ではアニメ&小説『秒速5センチメートル』はどうか? ファンタジー要素は皆無だ。なのに「喪失」してしまう。貴樹と明里のパーフェクトな初恋、パーフェクトな関係性が。ここではファンタジーのかわりに、何が導入されているのか?

 身も蓋もない現実、だ。物理的な距離が離れてしまえば、心も離れてしまうということ。中学一年生が胸に抱く「ずっと絶対に好き」は、時間と共にもろくも消え去ってしまうものだということ。そして。初恋とは、その後の恋の、他者とのパートナーシップのモデル(手本/原型)になってしまう、呪いのようなものだということ。

 最終第三話「秒速5センチメートル」では、大人になった貴樹が、フリーのプログラマーとして再登場を果たす。本話はアニメ版ではもっとも短い尺だったが、小説版ではもっとも長いページ数を割かれ、「今」に到る来歴が詳しく描写されていく。大学時代に初めてできた恋人。塾講師のバイト先で知り合った二人目の恋人。会社員時代に出会い——アニメでも数瞬、登場する——三年間付き合った恋人。これまでの人生を振り返り、彼は、初恋の失敗を繰り返していることに気付く。一五年ぶりに慟哭し、やがて心の叫びを放つ。「たったひとりきりでいい、なぜ俺は、誰かをすこしだけでも幸せに近づけることができなかったんだろう」。

 違う!! とその時、読者は思う。彼には決して聞こえない、彼女の——一五年後の明里の——語りを同時に読み進めてきた読者は、彼の記憶が彼女を、「今」も、あたたかな気持ちにさせていることを知っている。それだけじゃない。彼に強烈な片思いをしていた種子島の女の子が、彼に拒絶され告白さえ叶わなかった失恋をしながらも、「それでも」、「私は遠野くんが好き」と心を震わせていたことを知っている。彼女が最後に彼と会った時に告げた、「ずっと遠野くんのことが好きだったの。今までずっとありがとう」という言葉が、恨みではなく、強がりでもなく、彼女の本心だったということを知っている。

 アニメ版との最大の違いは、ここにある。共感を持って——まるで自分のことのように——読み進めていた主人公に対して、読者はここで、反感を抱く。主人公との心の距離が生まれ、そこからの数ページを、彼の「その後」を、客観的な視線で見つめることができる。そうしてきっと、心の中でこうつぶやくことになるはずだ。「きっと大丈夫だよ」。

 一冊の本を紹介したい。『その後の不自由——「嵐」のあとを生きる人たち』(上岡陽江+大嶋栄子/医学書院/二〇一〇年刊)。アルコール中毒や薬物依存、トラウマティックな事件を体験した女性達へのケアを実践する著者がレポートした、当事者研究の最前線だ。その第一章「私たちはなぜ寂しいのか」で、「回復の四段階」という理論が登場する。断薬して間もない人から薬物をやめて長い人まで、女性薬物依存症者複数名にインタビューした専門家が、回復の段階ごとに異なる精神状態&キーフレーズを抽出したものだ。紹介しよう。

 第一段階は、精神状態=断薬したから大丈夫&キーフレーズ「もう大丈夫」。第二段階は、精神状態=回復できるのだろうか&キーフレーズ「どうなれば回復か」。第三段階は、精神状態=回復できるかもしれない&キーフレーズ「変わってきてるかもしれない」。第四段階は、精神状態=回復はゴールではない&キーフレーズ「回復とは回復しつづけること」。

「第四段階になると、回復というのは何かゴールが決まっているのだろうと思っていたけれども、そうじゃないということがわかってくる」と、自らも依存症者であり長期離脱者である著者は記す。ことは女性の、薬物依存症者に限らない。書名の通り、「嵐」を経験した「あと」の時間を生きる人達にとって——遠野貴樹にとって、彼に共感する読者にとって——適用可能な四段階だと感じられる。

 人はただ生きているだけで傷つく。ただ生きているだけで辛く、苦しい。そこからの、あっという間の、鮮やかな、決定的な「回復」などはありえない。そう気付けばこそ人は、日々の、小さな「回復」を感受し、喜び、大切にすることができる。例えば、昔大好きで大好きで会いたくて会いたくてたまらなかった人と踏切ですれ違ってすぐに離ればなれになった、そのことを、苦しみではなく喜びとして受け止めることができるようになる。

「それだけでもう十分に奇跡だと、彼は思う」

 僕もそう、思う。

 冒頭で、本作は新海誠の「小説家デビュー作」と書いた。「第二作」は残念ながら、いまだ発表されていない。いつかまた、言葉だけで書かれた新海誠の物語を読みたい。その語りに、翻弄されたい。最後に一言、そんな祈りを込めて。

※新海さんはその後、『小説 言の葉の庭』、『小説 君の名は。』、『小説 天気の子』、そして『小説 すずめの戸締り』と4作の小説を発表しています。新海さんの小説家としての仕事を振り返る書評連載を、ダ・ヴィンチWebで更新中です。https://ddnavi.com/review/1019527/a/

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