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【書評】 人生の主人公になることと、誰かにとっての観客になること。──乗代雄介『パパイヤ・ママイヤ』

すばる2022年8月号掲載。本文ラストに登場する「舞台」の一語から想像力を広げました。

 <これは、わたしたちの一夏の物語。>と宣言することから始まるこの小説は、十数行先で、舞台となる場所の名前が明かされる。小櫃川河口干潟だ。千葉県中西部に位置し、東京湾に唯一残された自然干潟として知られるこの場所に、六月の終わりのある日、パパイヤという人物が訪れる。笹藪に挟まれた「人ひとりがやっと通れるほどのまっすぐな砂利道」を通り、彼岸と此岸の境界線を思わせる「無数のカニの群れ」を踏み越えて、流木が折り重なった「木の墓場」へ。<そこにわたしがいる。(中略)/わたしたちの目はすぐに引き合った。/「ママイヤ?」とパパイヤは言った。/ちょっと笑って、ぶら下げていた足を引き上げてから、わたしは言った。/「ほんとに来たんだね、パパイヤ」>。書き出しの一文が示していた、この物語は過去の回想である、という事実関係がグッと遠のき、物語は現在進行形へと生まれ直していく。

 現在進行形の中に現れる数少ない回想の一つは、その直後にある。ママイヤとパパイヤはSNSで知り合った。二人には「親がむかつく」という共通点があり、偶然にも五キロと離れていない近所に住む者同士だった。その少し先で明かされる事実関係によれば、二人は十七歳の女性で、ママがイヤな方はママイヤ、パパがイヤな方はパパイヤというハンドルネームを使い、本名は明かさぬままお互いをそう呼び合っている。そして、「木の墓場」を待ち合わせ場所にして、二人はこの日初めて直接対面した。意気投合ののち、部活動で忙しいパパイヤの予定に合わせて、毎週水曜日の夕方にここで会うというルールを二人は決める。ここを舞台にした二人芝居の即興劇が、本格的に幕を開ける。

 著者が初めて登場人物の名前をタイトルに付けた本作は、日替わりを多用し、夏休みに突入しやがて夏の終わりへと到る二人きりの日々のきらめきを、一つ一つ丁寧に積み上げていく。この場所には他に誰もいなければ、想像力に刺激を与えるような小道具は何も置かれていない。ここにあるのは基本的に、二人の性格と人生だけだ。他には、ママイヤが趣味にしているトイカメラと家で作ってきたお弁当、パパイヤが部活で使っているバレーボールくらい。最初の頃はお互いにスマホを持ち込んでいたが、ある出来事をきっかけにそれすらも止める。二人は身一つの“ステゴロ”で、相手の言葉を受け止め、相手に自分の言葉を投げかける。目の前にいるのがこの相手だから、この場所に二人きりだから、家族や学校の友人には言えないことが言える。作中には出てこない無粋な表現を使うならば、ノーマスクで。人とナマで会って喋ることの醍醐味が、二人の日々のきらめきを支えている。

 本作における著者は、二人芝居の即興劇を見守りつつ、時に刺激を与える演出家だ。笹藪の中に死体を見つけたりしてしまったら、誰だって同じリアクションになってしまう。大きな事件は、個性を塗り潰す。だから、著者はできるだけ低刺激なものを投げかけ、そこから二人ならではのリアクションを引き出していく。例えば、「木の墓場」に初めて現れた男の子が描いた、空が一面黄色に塗られていた絵。その黄色のイメージ(着想の出発点はパパイヤの表皮の色?)が後日、「きいれえ(黄色い)もん」を偏執狂的に集めるホームレスの老人へと結晶化される。おそらく演出家自身、構築的というよりも即興的に二人に刺激を与え、そこから出てきたものを注意深く拾い集めるようにして書き進めていったに違いない。著者がこれまでの作品で導入してきた、文学を始めとする学術知識の引用による、過去と現在の乱反射という事態は一度たりとも引き起こされることはない。ただ、ただただ、二人を見つめている。ここで起きていることは一回きり、これっきりだと感じさせる迫真性は、読者にとって何よりの推進力となっている。

 即興劇はスタート地点において、何かしらのテーマが必要だ。方向性と言ってもいい。それがなければ演者たちは、さすがに途方に暮れてしまう。本作の舞台が小櫃川河口干潟である理由は、ここにある。目指すべきはパパイヤとママイヤの内面的な「浄化」だ。二人にとって「浄化」すべきものは何か? どちらも最初は分からずにいる。しかし、相手役との会話を通して少しずつ気が付いていく。自分がやりたいことは何であり、自分にとっての幸せとは何か。学校や社会、あるいは過去の自分が突き付けてくるこうあるべきという自己像にまつわるノイズが消え去って(「なんか、なりたい自分だって気がするんだよね、あんたといる時だけ」byパパイヤ)、それぞれの思いが透き通っていく。

 その先で、「ずっと友達だね」「うん」というとびきりシンプルな会話が現れる。ここでの「ずっと」は、「ずっと一緒にいる」ことを意味しない。たとえはなればなれになったとしても、この先の未来でも友達同士であることを意味している。二人の会話の全ては、お互いが本気でそう信じられるようになるための道すじであったと言うこともできる。

 やがて物語は幕を閉じ、二人の共演は終わる。新たなる即興劇のテーマが示され、二人の人生の舞台はここから大きく変わる。二人は演者と演者という関係性から、演者と観客という関係性に変わる。わたしの人生を遠くから見続けてくれているあなたがいるという感触は、いったいどれほど心を温めることだろうかと思う。あなたの人生をわたしは遠くから見続けるという決意は、人生はひとつしか味わえないという根源的な寂しさからどれほど遠ざけてくれることだろうか、と。自分の人生の主人公は自分でしかないにもかかわらずそうと感じられなくなっていた二人が、そう振る舞うことができるようになる喜びを描いた小説は、誰かの人生の観客となる喜びをも描き出す。ここには、二重の感動がある。「出会う」という経験の、本当の意味がここにあるのだ。

※https://www.shogakukan.co.jp/books/09386644

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