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【評論】 安野モヨコが『ジェリービーンズ』に込めたもの

2003年9月刊「文藝別冊 総特集 安野モヨコ」に寄稿。若書きと知りつつ、無修正でアップします。

 少女漫画誌に作品を発表する少女漫画家としてキャリアを開始した安野モヨコは、九五年からヤングレディース誌やファッション誌、青年漫画誌といった少女漫画誌以外の媒体で活動するようになった。では九五年から先の安野モヨコは少女漫画家ではないのかというと、もちろんそんなことはい。
 例えば『パトロールQT』や『ラブマスターX』のように、九五年以降も彼女は時おり、これは少女漫画です!と主張するような漫画を描いている。彼女は常に何本もの長編連載を抱えており、各作品の連載期間が長い。常に一本は少女漫画的な少女漫画を描いていると考えて間違いないだろう。
 では『ハッピーマニア』はどうだろう? 『花とみつばち』は? ページをめくってみれば一目瞭然なのだけれど、これらの作品は他の少女漫画的な作品と画面の構造がだいぶ異なっている。コマ割りがシンプルで読み易いのだ。コマとコマが重なりあったり入れ子になったり、枠線がコマ同士で共有されていたり斜めに暴れていたりということはほとんどない。上下に数ミリの空白を挟んだ長方形のコマたちが整然と並んでおり、読者の視線の移動は実に安定的に右から左、そして上から下へと進んでいく。この画面の落ち着いた感じは少年漫画的だ。見た目的には少女漫画じゃない。
 しかし、問題はコマの内側に配置されている言葉の質だ。『ハッピーマニア』や『花とみつばち』を改めて見直すと、そこには意外な程、登場人物の心の中の言葉が溢れていることに気付く。行動派のイメージが強いあのシゲカヨも、意外と内省しているのだ。「内省している」というのは心の中で恋愛についてああだこうだと妄想したり躊躇したり、現状の選択肢に関する葛藤を経た後で行動に移行しているというような意味で、いや、イメージ通り反射的にイイ男にかぶりついてしまっている場合も結構あるのだけれど、何はともあれシゲカヨはちゃんと心の中に言葉が溢れている。
 言い方を変えよう。漫画の吹き出し(セリフを囲む丸い円)にはいろいろな種類があるが、もっとも使用頻度が高く一般的な三角のでっぱりがある吹き出し(以下、三角吹き出し)が担う機能は、登場人物が発する声の記述にある。大雑把に言ってしまうと、少年漫画はこの三角吹き出し=声の記述によって物語を展開させる。しかし少女漫画の場合、三角吹き出しの他にも、例えば心の中の声を示す丸いでっぱりのある吹き出しや、吹き出しの外に置かれた文字情報などが様々に動員されることによって、物語が語られる。バリバリの漫画評論家として活躍していた頃の大塚英志は次のように書いている。「フキダシの外の文字情報の表現に比重が置かれているか否かが少年まんがと少女まんがを区別する恐らくは唯一の基準なのである」(『戦後まんがの表現空間』所収「内面の発見と喪失」より)。大塚のいう「フキダシ」は、三角吹き出しだと考えた方が分かりやすい。
 そしてこの「基準」を適用させるならば、『ハッピーマニア』も『花とみつばち』も、純然たる少女漫画である。『ハッピーマニア』の文庫版五巻の解説で山本文緒は「この爽快感は北斗の拳のようですらありました」と記しているけれど(そして心情的には僕も全く同感なのだけれど)、シゲカヨの心の中の言葉の充実によって語られるこの物語は、声とアクションのみで組み立てられた『北斗の拳』のような少年漫画ではなく、少女漫画の文法にのっとって描かれたものなのだ。青年漫画誌に連載されていた『花とみつばち』も同様だ。そういえば安野モヨコは、物語の最初に始まっていた恋が紆余曲折を経て最後にまた始まるという、元サヤというか、元サヤと言うと違うな、運命の赤い糸はぐるぐるぐるぐる絡まるけどいつかちゃんとほどける、みたいな話を好んで書くように思う。王子or王女様は誰? それって実に少女漫画的テーマではないか。
 ところで、『花とみつばち』はモテない男・小松が(太田サクラに)モテるようになる話なのだけれど、小松は見た目が良くなったからモテるようになったわけではない。心の中に芽生えた言葉を、声に出して伝達できるようになったからモテるようになったのだ。
 単行本一巻五八〜五九ページ(第二話)を見てみよう。細くし過ぎたまゆげをどうにかしようと、アイブロウを塗りたくって登校してきた小松を屋上に連れ出してサクラは言う、「まゆ毛へん」。それに対し小松は「う‥‥」「な‥‥なんだよ!! 細いとかへんとか‥‥」「言いたいこと言いやがって‥‥」。「何やってんの?」とサクラに最近の様子を聞かれても、「‥‥‥‥」とまともに喋れないのだ。しかし六コマ目で小松の心の中の声が爆発する。
<お前みたいな女にバカにされないモテ男になろうとしてんだよ!!><コレ言ったらまたバカにされるんだろーーな‥‥>
 だが、小松の心の中の言葉は決して声にならない。そしてまた、小松は言いたいことは何一つちゃんと言えない。「ありがとう」の言葉さえも「あ‥‥ありが‥‥」と、途切れ途切れだ。
 ところが、単行本五巻五〇〜五一ページ(第四一話)ではどうか。サクラが元カレと殴り合いの喧嘩をしている場面に割って入り、その結果男に一方的に殴られた小松はサクラに手を引かれ病院に来ている。小松は心の中で思う。
<太田があいつに乱暴されてるの見てられなかった 何も考えられなくて><気がついたら身体が動いてた なんてここで言ったら‥‥><いや!!いいんだ ここで言うんだ!! 恥ずかしいと思うような心の中の言葉を>
 小松は前を歩くサクラの背中に向かって声を出す。
「さっきは‥‥ホントに‥‥太田が‥‥‥」「殴られそーになってんの見て」「助けなきゃって」「それしか考えてなかった」「自分が弱いとか‥‥やられるとか」「全然考えてなかったんだ」<言った!!>
 そしてサクラは胸打たれてしまう。小松の成長を見守ってきた読者も同じ気持ちだ。小松が「心の中の言葉」を声に出す瞬間がくっきりと鮮やかに描かれたこの場面は、少女漫画の文法を用いたからこそ可能になっている。少女漫画の文法は「声」を煌めかせるのだ。だって、我慢して妄想してぐずぐずした後で女の子が「好き」という時、その「好き」を目撃する読者のときめきは計りしれないじゃあないか……。そのときめきの度合いを高めるために、少女漫画では心の中の広がりが要請されているのではないだろうか。安野モヨコの漫画には、確かに、その「広がり」が存在している。
 とはいえ実は、ほぼ三角吹き出し=登場人物の声の記述のみで組み立てられた活劇的・少年漫画的シーンもまた、安野モヨコの作品においては頻出する。彼女は九五年以来、少女漫画誌以外の場所で少女漫画的な漫画を描くことによって、また少女漫画的ではない漫画の構造の作り方を体感することによって、少女漫画と少年漫画の文法を混交させることに成功したのではないか。そうしてだんだん、彼女の漫画が少女漫画であるという部分が見えづらくなっていった……。だったら、と。これぐらいやったら完璧に少女漫画でしょう!? というぐらい、心の中の「広がり」を、拡張し爆発させたのがたぶん、『ジェリービーンズ』という作品だ。
『ジェリービーンズ』は、隔週刊ファッション誌「CUTiE」で九八年から〇二年にかけて連載された、ファッションデザイナーを夢見る遠藤マメの物語だ。本作は、同じく「CUTiE」で九六年から九八年に連載された、四倉ミリとその同居人たちがファッションモデルとして活躍する前作『ジェリー イン ザ メリィゴーラウンド』の後の時間を描いた続編に当たる。
「ジェリー」シリーズの特徴は、恋とおしゃれ、少女の二大大好物がテーマだということ。なにしろ掲載誌が「CUTiE」という、女子中高生たちが読むファッション誌なのだ。少女たちは恋の行方だけでなく、登場人物のおしゃれにも感情移入して読んで、見ている。その視線を作者が強く意識しているからだろう、「ジェリー」シリーズは登場人物の服のバリエーションがとても豊富で細密だ。『花とみつばち』であれば女の子にモテるための方法、『ラブマスターX』だったら男の子を手玉に取る方法(←言い過ぎています)というように、安野モヨコの漫画を実用書的に読む読者も少なくないのではないかと思うが、「ジェリー」シリーズは、恋だけでなく現実のおしゃれに関しても格別実用的なのだ。
 もちろん、相違点も多い。一つは主人公像だ。容姿そのものが才能となるファッションモデルの世界で成功するミリと異なり、マメは足が短くて太い、普通の学校に通う普通の女の子だ。マメが個性的であるとすればそれは読者と同程度に個性的であるに過ぎない。だが、マメの強みはその「普通さ」であり、だからこそマメの「ジェリービーンズ」という服のブランドは、一握りではない大勢の「普通の女の子」たちから支持を受けることになる。もう一つは、『ジェリービーンズ』のほうが恋よりもおしゃれに比重を置いて描かれていること。この点は、他の漫画家の作品と比較してみても同様だ。服作りを題材に取った少女漫画は他にも存在するけれど、たいていの場合、「恋>服作り」だったはずだ。ところが『ジェリービーンズ』では、その不等号が逆向きになっている。マメは服作りのために、恋人であるミコシバ君の元を何度も離れていってしまうのだから。
 だが最も決定的な違いは、『ジェリービーンズ』が持つ、心の中の「広がり」に関する部分だ。実は『ジェリー イン ザ メリィゴーラウンド』は、今までに完結している安野モヨコの作品の中では最も心の中の言葉の割合が小さい。そしてその反動と言ってもいいぐらい、『ジェリービーンズ』ではその割合が大きい。この変化は、主人公の年齢がミリ一六歳→マメ一四歳と若返り、セックスなしの妄想に満ちた「中学生ラブ」を描いたためにもたらされたわけではない。ないというよりも、それだけでは足りない。『ジェリービーンズ』が持つ「広がり」は、マメをファッションデザイナーという物作りの立場に置くことから生まれたのだ。
 単行本一巻第八話でマメがスカートをリメイクするシーンを見てみよう。マメはお気に入りのスカートを穿いてみるが、丈の長さが気に入らず裾にはさみを入れてしまう。裾が曲がってぐちゃぐちゃになってしまったスカートを見て、マメの姉は「ジャングルに迷い込んだ人みたいよ」と冷ややか言い放つ。一度は落ち込むマメだったが、姉の「ジャングル」という言葉に反応し、<あたまの中は…いつのまにかジャングル>になっている。マメはジャングルの中で様々なイメージと出会う(七二〜七三ページ)。
<あたしはジャングルに住む野性の女の子><パパの探検隊についてきてはぐれちゃったままひとりでくらしてるの>
<きいろいバナナ ジャングルグリーン><ペリカン マンゴーのピンク>
 マメは<心の中のイメージを頭の中でこわさないように><そうっと><切ってぬって>スカートのリメイクを完成させる(七四ページ)。マメが作る服は、こんなふうにマメの「心の中」と裏表で繋がっているのだ。これ以降、マメはこうした白昼夢を何度も体験する。そうして心の中の言葉とイメージを、現実の「声」に変えていく。つまり、何着もの「服」にする。またはその逆に、現実の「声」や「服」を、心の中の言葉やイメージに変えて、そして……マメは何度もときめく。
 これほどのときめきを、漫画で表現した人はいない。それはたぶん、作者がマメの経験に自分の経験をしっかりと重ね合わせていたからだと思う。マメの心と自分の心をしっかりと繋ぎ合わせていたから。
<たいくつな場所をとびだしてあたしは街へ!!><舞い散る葉っぱ こもれ日 くず入れの新聞><この空気を服にするんだ 軽やかでキュートで><5月の雨あがりの青空みたいな>(一六〇〜一六一ページ)
<宝物がいっぱいつまった><そんな服をいっぱい作る あたし自身も宝物><てのひらに いつものってたいの>(一六九〜一七〇ページ>
 映画監督のジャン=リュック・ゴダールは、もし映画が発明されていなかったとしてもサミュエル・フラーなら自分で映画を発明してしまっただろうと書いた。そのような意味で、もし少女漫画が発明されていなかったとしても、安野モヨコならばきっと、自分で少女漫画を発明してしまっただろう。そして心の中の言葉と現実の「声」を、見事な形で作品内部に共存させていたはずだ。
 安野モヨコは常に、最も注目すべき少女漫画家である。……<言った!!>。


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