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新聞記者最後の日。書けなかったエピソード。


記者をやっていると「書きたいけど書けない」という状況にも出くわす。

大半は「書かれる側」に配慮して、というパターン。
これは読者の皆さんにも想像はつくかもしれない。

もうひとパターンある。
それは「自分が関わりすぎていて書けない」だ。

ファンの皆さんが読みたいのはやはり、アスリート本人のエピソードだと思う。その描写に、あくまで「媒介者」でしかない記者が写り込むのは避けるべき。多くの記者がそう考えている。

ただ、記者が写り込むことによるマイナスと、書いた時のインパクトとで、後者が上回りそうな時もある。
天秤にかけて、書いた方がいいのではないか、と悩む。原稿の仕上がり直前まで、その要素を削ったり、また書き込んだり…と。

今回は書かせていただくのは、記者人生の中で最も悩んだケース。
それは新聞記者生活の最後の日のことだ。

よりによって、現場から書く最後の原稿について、僕はものすごく悩むことになった。
自分が写り込んでしまったエピソードが、あまりにもドラマチックだったからだ。

ペン

2017年5月。西武ライオンズ担当を務めていた僕は、その月いっぱいで日刊スポーツ新聞社を退職することになっていた。

最後の取材は19日から行われた、本拠地メットライフドームでのソフトバンク3連戦。
15年続けた仕事だ。天職だとも思っていた。記者最後の日を前に、さすがに感傷的になっていた。

20日深夜。眠る気にもなれず、自宅でビールのグラスを傾けていた。するとスマホに1通のSMSが届いた。

「明日、最後ですよね。オレ、必ず打ちますから。見ててください」

メッセージの送り主は、西武ライオンズの栗山巧選手。
長年、主力として名門球団を引っ張ってきた、ファンも認める「チームの象徴」だ。

ボール②

連絡先こそ交換していたが、メッセージをくれるのは初めてだった。
しかも、ここまで言ってくれている。素直にうれしかった。

だが、複雑な気持ちにもなった。
打ちたくても、打席がない。当時の栗山選手は、そういう状況だったからだ。

この時はソフトバンクとの3連戦の最中だったが、19日の初戦、20日の2戦目と、栗山選手の出番はなかった。
5年続けて務めていた主将を降りて、ひとりの選手として勝負を懸けたシーズン。開幕直後は好調だったが、4月8日に一塁上で野手と交錯して負傷してから、まったく調子が上がらなくなった。

辻監督はそれでも、懸命にプレーするベテランを起用し続けていた。だがソフトバンク3連戦を前に「明らかに振りが鈍い」とみて、ついに先発から外す判断をしていた。

19日の初戦では、9回裏に一打同点の好機があった。ファンが「代打栗山」を期待する場面だったが、起用されたのは控え捕手の岡田選手。「勝負の打席には立たせられない」という評価を突きつけられる形になった。

それでも栗山選手は、努めて明るく振舞っていた。
翌20日も、試合前の球場に早々に現れ「おはよう!今日も頑張るで!」と試合に出る若手に声をかける。

若手も声を張って応えていた。
だが「どう接していいのか分からない」というような戸惑いも、彼らの反応にはどうしてもにじんでしまっていた。

それが分からない栗山選手ではない。
気づくとグラウンドを離れ、観客席中段を横切る通路を静かに走っていた。周囲に気を遣わせたくない、という配慮だった。

遠い背中は、心なしか小さく見えた。

ペン

「必ず打ちますから」

西武狭山線の先頭車両で、前夜のSMSを何度も見返した。
5月21日、午前8時。西武球場前駅の改札を出ると、早くも夏のような日差しが突き刺してきた。

レフト側の通用門を通って、まだ誰もいない球場に入っていく。これも最後かー。そんな感慨に浸りながら、観客席中段の通路を内野のほうへと歩く。

すると、バックネット裏の階段を、グラウンドレベルに向かっておりていく栗山選手の姿が見えた。

なんと声をかけていいものか、迷った。

思い切って駆け寄ろうかと考えては、ためらう。そうしている間に、相手はグラウンドに入り、ストレッチをはじめてしまった。
普通にあいさつをすればよかったなー。そんなことを思っていると、ひとりのコーチが栗山選手に歩み寄った。

野手総合コーチの橋上秀樹さんだった。このタイミングで、あの人から声をかけられるのは、その日先発のメンバーだけ…。

今度は深く考える間もなく走り出した。
バックネット裏の階段を駆けあがる。ちょうど、辻監督がおりてきた。

「監督、栗山選手は…」

「おう、先発だよ」

「でも…」

「昨日の試合前の練習から急に変わったよ。ものすごくバットが振れ出してきた。気づかなかった?」

ニヤリと笑って、すれ違いざまに僕の肩をたたく。
階段を下りていく辻監督の向こうに、いつもと変わらない様子で黙々と走り込む栗山選手の姿が見えた。

ボール②
バットは振れ出した。だが、それが結果に直結するほど、実戦は甘くはない。
6番・指名打者で先発した栗山選手だったが、継投策をとるソフトバンク投手陣に対し、タイミングが合わなかった。

セカンドゴロ。送りバント。ファーストゴロ。そして7回裏の第4打席も空振り三振に終わった。
西武1点のリードのまま、試合は9回表、ソフトバンクの攻撃へ。抑えの増田投手がいつものように得点を許さなければ、勝利が決まる。

それはすなわち、栗山選手の打席がもう回ってこないということでもある。

記者生活の最後に「必ず打つ」と言ってくれる取材対象に会えてよかった。寂しいようで、それでいてじんわりと温かみが胸に広がるような気持ちで、僕は記者席から試合を見つめていた。

ペン

だが、ここでまさかのことが起きた。

松田宣浩選手の打球が、バックスクリーン左横に向かって伸び、そのままスタンドイン。ソフトバンクが追い付いた。

同点では試合は終わらない。
なかったはずの9回裏、西武の攻撃。なかったはずだった栗山選手の第5打席がめぐってきた。

ただ、マウンドに立つのは、18試合連続無失点中の岩嵜翔投手。
簡単に打てる相手ではなかった。

「あっ!」。記者席で声を上げてしまった。最初のストライクが、意外にも甘く入ってきた。しかし、栗山選手はそれをファウルにしてしまった。
千載一遇だったか…。思わず頭を抱えた。だが、打席の背番号1は眉ひとつ動かさず、もう一度構えに入っていた。

フルスイング。打球がバックスクリーンの右に向かってグンと伸びる。
「いけ!」。思わず叫んだ。中堅手と右翼手が、打球を追うのをやめた。

メットライフドームが、大歓声に包まれた。

ボール②

栗山選手にとって、プロ生活16年目で初めてのサヨナラホームランだった。
三塁側ベンチ裏で辻監督の試合後の談話をとり終えてから、僕はバックネット裏の階段を駆け上がった。

最上部の踊り場が、選手が取材に応じるエリアだ。
ひときわ大きい取材の輪がある。その一角がパッとあいた。記者のみんなが目くばせをして、輪の中心近くに招き入れてくれた。

栗山選手はこちらに気づくと、破顔一笑「ほら!ね!」と言った。
聞きたいことは、いつだってたくさんある。だがこの時はまったく言葉にならなかった。

ペン

この経緯を知らせていた記者仲間からは「そこも含めて記事を書いた方がいい」と強く勧められた。

僕もそうしようかとも思った。栗山選手の人柄を示すエピソードだ。
展開もドラマチック。きれいに書き上げられる自信がないわけでもなかった。

ただやはり、最後に思いとどまった。
「記者として最後の日」という状況で、自分が舞い上がっているような気がしたからだ。

記者として曲げずに来たものを、最後に曲げてしまうのも、もったいないような気もした。
結局、その要素を外して、現場からの最後の記事を書きあげた。

スマホ

もう一つ、エピソードがある。
これは新聞記者ではなくなってからのことだ。

6月。僕は新しい会社に移った。
そしてしばらくした頃、ある案件がらみで、栗山選手と連絡を取ることになった。

用件が済むと、栗山選手は「どうですか?慣れました?」と聞いてくれた。
シーズン中にも関わらず、気にかけてくれていることをありがたく思いつつ、僕はざっと近況を説明した。

新しい職場は、同僚の大半が20代。文化も違う。最初は溶け込めずに悩んでいた。

ある日、まったく違う部署の社員からメールが来た。「いつも記事を読んでました」とつづられていた。それだけで、なんだか救われた気がした。
その彼はさらに、様々な部署の西武ファンを集めて、定期的に食事会を設けてくれた。そのおかげで、新しい会社にもだいぶ慣れ、社内人脈もできた。

「へぇー。そうやったんですか!ライオンズ担当やっててよかったやないですか。ある意味、オレも塩畑さんの役に立てているってことですかね」

栗山選手は冗談めかしながらも、僕の再出発を喜んでくれた。
そしてなぜか、こう聞いてきた。

「その集まりって、次はいつあるんですか?」

ボール②

話の流れで、軽く聞いてきただけだと思っていた。
だが、そうではなかった。

翌2018年1月。新宿のゴールデン街にある焼肉店で、社内のライオンズファン同士での新年会があった。
宴もたけなわの頃。誰かが個室の戸を開けた。メンバーがいぶかしがってそちらを見ると、栗山選手が顔をのぞかせた。

「すいません、おじゃましてええですか?」

あまりのことに、場は凍り付いてしまった。
「なんかごめんなさい」と苦笑いしながら、栗山選手は僕が勧めた席に座った。

最初はまともに話すこともできなかった同僚たちだが、やがて興奮気味に「いつも応援してます」と訴え出した。
ニコニコと笑いながら、栗山選手は会話に応じている。その横顔を見ながら、僕はひとつの推測にたどり着いた。

おそらく栗山選手は、元・番記者を受け入れてくれた会社の同僚たちへのお礼のつもりで、この場に来てくれた。
「これからもこいつをよろしく」という意味もあるかもしれない。わざわざこの新年会に現れる理由が、他には思いつかなかった。

ペン

ゴールデン街の夜もそうだった。
僕がお礼を言うたびに、栗山選手はいつもこう答える。

「いえいえ、オレもたくさんの人にお世話になってきたので」

僕が所属していた日刊スポーツ新聞社には、栗山選手のデビュー当時から取材している先輩記者がいた。
そういった背景もあって、歴代の西武担当も皆、栗山選手とはいい関係で取材をしていた。

他のメディアとも、そうしたつながりはあったはずだ。
そして栗山選手は、恩義を忘れない義理堅さを持っている。

そうした業界とアスリートの信頼関係の大きな輪の中で、僕は記者生活最後の日に至るまで、何度も特別な経験をすることができた。
そして、新天地で貴重な助けも得られた。本当にありがたいことだと思う。

◇   ◇   ◇

ネットの力は偉大だ。
この業界に身を投じて、毎日のようにそう感じる。

今回の新型コロナウイルスまん延もきっかけになり、ネットはコミュニケーションのあり方をより効率的なものに変えようとしている。
そして「集合知」という意味でも、ネットは人々に最適解までの最短距離を示す。

人々は今までよりももっとうまく立ち回れるようになった。ゆえに、うまく立ち回ることに価値が置かれるようにもなった。

ただ、うまく立ち回るのが全て、ではないとも思う。
もっと大きな流れ、輪のようなものの中で、人は生きているような気がする。


僕も誰かに、こう言える自分でいたい。

「たくさんの人にお世話になっているので」



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