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寡黙なヒロシの「ひと言」次第で、時は止まり、時は動く。


たった「ひと言」
それを言ってさえいれば。

そんな切ない思い出がある。

2011年4月30日、国内男子ゴルフツアー・中日クラウンズの第3ラウンド。
日刊スポーツの記者だった僕は、首位を争う最終組に同行し、取材していた。

特に目当てにしていたのは、岩田寛プロ。
シーズン開幕前から、個人的にずっと追っていた。

"事件"が起きたのは、最難関ホールだった14番パー4だった。
物音を立ててはいけないティーグラウンド近くで、僕は思わず「あっ」と声を出してしまった。

グリーン


岩田プロのティーショットは、大きく左に曲がった。

無情にも、その先にはOBゾーンがあった。
200ヤード以上先で打球の行方を見ているフォアキャディーが、青い旗を掲げる。

彼はがっくりとうなだれて、ティーグラウンドをいったん降りた。
コンビを組む新岡隆三郎キャディーが声をかける。

青だから。
言っておいた方がいい。

真っ当な助言。素直に従い、その「ひと言」を言えばいいだけだった。
だが、岩田プロは静かに首を振った。

「必要ない」

同組の池田勇太プロが第1打を放つ。
それを見届けると、彼はティーショットを打ち直すべく、再びドライバーを握った。

ペン


僕は2011年から4年間、ゴルフ担当を務めていた。

取材を重ねる中で、特に強く印象に残ったことのひとつ。
それが岩田プロの類まれなる潜在能力だ。

それは、世界のトップ選手たちにも引けをとらないレベルのもの。
僕は今でも、そう確信している。

ある年の国内男子ツアー最終戦、ゴルフ日本シリーズJT杯。
スコアを落としてラウンドを終えた岩田プロが、ドライビングレンジでショット練習を始めた。

気持ちを切り替えるためだろうか。
方向性のことを忘れて、ドライバーをフルスイングする。

ドライビングレンジが打ち下ろしということもある。
ボールは300ヤード先の林を軽々と超えて、見えなくなった。

「マキロイかよ」。
ため息まじりに、誰かがつぶやいた。

グリーン


新岡キャディーが、岩田プロを慌てて制した。
林の先には17番ホールがある。まだその付近をラウンド中の選手もいれば、追いかける観客もいる。

そこに球が届く心配がないよう、ドライビングレンジは設計されている。
だが、バカげたまでの飛距離は「もしかしたら」と危険性を感じさせるのに十分なものだった。

じゃあもう、ウェッジを振るよ。
そう言って、岩田プロはパターをのぞけば一番飛距離が出ない、ロフト角58度のウェッジを手に取った。

100ヤード以内からのアプローチに使うクラブ。それをまるでドライバーのようにフルスイングする。
ボールは恐ろしく高く舞い上がって、150ヤードの看板をこえたあたりの地面に突き刺さった。

周囲の選手から、あきれたような笑いが起きた。

ペン


彼が「青旗」にも無言を貫いた瞬間から、さかのぼること1か月。
僕は仙台市内で、岩田プロの父・光男さんと夕食をご一緒していた。

東日本大震災の発災からは、まだ1か月も立っていなかった。

震災取材班に参加し、仙台に入っていたが、本籍はゴルフ担当。
被災地を取材する一環として、できれば現地のゴルフ関係者も取材しようと思っていた。

国内男子ゴルフツアーの広報に相談すると、岩田プロを推挙された。
ご実家を当たってみると、父の光男さんが話を聞かせてくださる、ということになった。

待ち合わせた飲食店。
料理のオーダーもそこそこに、光男さんは語りだす。

「ひとつ間違えば、あいつは津波に流されておったんです」

飛行機


その年、岩田プロは沖縄でキャンプを張っていた。
3月10日に全日程を終え、翌11日に拠点の仙台に戻る飛行機に乗った。

その機上で、彼は午後2時46分を迎えた。

着陸予定だった仙台空港は、津波に飲まれた。
大津波警報を受け、まだ飛行中だった搭乗機は那覇方向に引き返していた。機内の岩田プロも、かろうじて難を逃れた。

光男さんはしみじみと語る。

「空港の駐車場に止めていたヒロシの車は津波で流されて、離れた場所でボロボロになって見つかりました。到着が数十分早かったら、それがあいつ自身だったとしても不思議ではなかった」

ワイングラス


「それにしても、そろそろ来ると思うんですが」

光男さんはどうやら、本人を呼んでくれているらしい。
父の経営するゴルフ練習場で、岩田プロは昼間からずっとショットの練習をしているという。

彼が姿を現したのは、そこから1時間ほどがたった後だった。
「すいません、遅くなりました」。そう言って、深々と頭を下げる。

とても礼儀正しかったが、多くは語らない。

「自分は助かったし、津波を見たわけでもないので」

そう言って、当日を振り返ろうともしない。

あまり多くを語るタイプではないというのは、国内男子ゴルフツアーの広報からも聞いていた。
加えて、センシティブな話でもある。光男さんから震災発生後の状況も聞けていたので、無理をすることはないと思った。

また試合会場で取材させてください。
そう言って、この日の会食は締めくくらせてもらった。

ペン


岩田プロについては、むしろ周囲の方が多くを語りたがる。

先日、マスターズを制覇した松山英樹プロもしかり、だ。
僕がゴルフ取材をしていた2014年当時、彼はよくこう言っていた。

「あの人は本当にすごい。振ったら誰よりも飛ぶ」

東北福祉大の先輩にあたることもある。
松山プロは岩田プロを、本当に慕っていた。

印象的な場面があった。
2014年11月、ツアー終盤の大一番、ダンロップフェニックストーナメント。2人は4日間のラウンドを終え、通算15アンダーの首位に並んだ。

圧巻だったのは、岩田プロの最終日のプレーだった。
8つスコアを伸ばし、首位を走っていた松山プロに一気に追いついてみせた。

プレーオフでの直接対決。
18番パー5のティーグラウンドで、岩田プロは松山プロに笑顔で握手を求めた。

だが、松山プロは鬼のような形相のまま、これに応じなかった。

グリーン


後日、松山プロはこう振り返ってくれた。

「相手がヒロシさんですから。気を抜いたら絶対に勝てないと思った」

のちにメジャーを制する選手だ。
飛ぶだけの相手だったら、ここまでは言わない。

幾何学的なまでに美しいスイングがはまりだすと、岩田プロのアイアンショットは精密機械のように、繰り返しピンの根元をとらえていく。

アプローチもうまい。
一時はイップスに陥ったこともあったと聞くが、それをまったく感じさせない。ピンにボールを寄せるショットのバリエーションも多い。

そして何より、パットだ。
取材をする中で、男子の岩田プロと女子の佐伯三貴プロとは、それぞれのツアーの中でもパットの精度が別格のように思えた。

岩田プロはのちに、2015年の全米プロゴルフ選手権第2ラウンドで「63」をマークする。

これは当時、海外メジャーの18ホール最少ストローク記録だった。
世界中の報道陣を集めた記者会見に臨むことになったが、当然ながらこれも並外れた実力あっての快挙、だった。

ワイングラス


震災直後、仙台市内での会食中。
光男さんは合流してきた岩田プロを前に、こう言っていた。

「仙台に帰ってきても、まともに練習ができない。余震も続いているし、帰ってくるなと言ったんですけどね」

仙台空港に着陸できなかった岩田プロは、そのまま九州に向かった。
交通機関が寸断され、物資も欠乏している仙台にすぐ戻ることは避けた。代わりに九州のローカル大会を回り、義援金を稼ぐことにした。

そのまま西日本で、4月14日の男子ツアー開幕を待つほうがいい。
周囲はそろってそう勧めた。だが岩田プロは4月に入ると、仙台に戻って来てしまった。

光男さんがため息をつく。

「被災地でみんなが大変な思いをしているのに、自分だけよそで調整、というのができない性分。それは分かるんですけどね…」

ペン


その数日後の4月7日。
仙台を震度6強の揺れが襲った。東日本大震災の最大余震だった。

まだ被災地取材を続けていた僕は、仙台市内のホテルにいた。
午後11時過ぎ、自室で「アメトーーク!」を観ていた。そのテレビの画面に、緊急地震速報が映し出された。

とっさに部屋のドアに飛びつき、開けた途端だった。
突き上げるような衝撃で、地震が始まった。揺れが強すぎて動けないというのを、初めて体験した。

揺れがおさまったので、荷物を持って廊下に出た。
非常階段の扉が開いていた。そこから地上に降りる。街は明かりが消えて、真っ暗になっていた。

日刊スポーツ新聞社の東北総局までは、歩いてもすぐだった。
到着すると、夜勤をしていた記者が、倒れた本棚の下敷きになっていた。駆け付けた何人かで救い出してから、東京の本社に連絡をして、地震の速報入稿の準備を始める。

そんな作業に追われながら、僕は岩田プロのことが気になった。
ツアー開幕戦の会場は三重県。もう仙台を離れていればいいのだが…。

ガラケー


「ヒロシ、まだこっちにいますよ」

翌日、光男さんに電話をすると、そう教えてくれた。

岩田プロが拠点とした実家のゴルフ練習場は、東日本大震災の本震の際、すでに各所にひびが入る被害を受けていた。
加えて、最大余震の強い揺れに襲われたため、点検のためしばらく使用できなくなるという。

ただでさえ、仙台に帰ってきてからはコースで練習ラウンドができていなかった。
さらにショット練習すらできなくなる。それでも岩田プロは、仙台から動こうとはしなかった。

この日、僕は3週間の被災地取材を終え、帰京することになっていた。
新幹線で戻る予定だったが、最大余震で運休になっていた。会社が手配したワゴン車で、岩田プロより先に仙台を離れた。

グリーン


取材現場に通うようになって、すぐに分かった。
岩田プロはとにかく、練習量が多い。

試合の期間中も、会場内のドライビングレンジにこもる。
4時間半のラウンドを終えた後に、数時間ショット練習をしているということも、ざらだった。

単に球を打つのが好きだから、というようには見えなかった。
ずっと首を傾げたり、ため息をついたりしていた印象しかない。

完璧主義者なのかな、と思いながら、彼の練習を眺めていた。
ここまで自分に課するハードルが高いと、ストレスも人一倍だろうと想像した。現に精神面から崩れて、何度も自滅し優勝を逃してきたとも聞く。

いずれにしても、常に球を打ち続け、追及をし続けるタイプ。
本来なら、誰よりも練習を重ねて、シーズン開幕に備えたかったことだろ
う。

ペン


そんな岩田プロが試合会場に入ったのは、開幕2日前の4月12日だった。

球が打てなくても。コースで練習できなくても。
彼は被災地仙台で直前まで過ごすことを選んだ。よほどの覚悟だと、今なら分かる。

開幕戦の東建ホームメイトカップは33位。
第2戦のつるやオープンでは予選落ちに終わった。

僕は女子ツアーの取材に回っていて、この2試合は現地に行けなかった。
その間もずっと岩田プロのことを考えていた。そして第3戦、中日クラウンズでようやく、彼を現地で取材できることになった。

彼は初日から、ぐいぐいとスコアを伸ばしていった。
第2ラウンドでは「64」の好スコアをマーク。後続に2打差をつける単独首位に立った。

そのプレーぶりは、何かに後押しをされているかのようにも思えた。
僕は仙台での取材内容を盛り込んで、その日の記事を書かせてもらった。

当時は「何があっても石川遼をトップ記事に」という時代だった。
だが会社は、岩田プロをトップ記事にすることを許してくれた。さらには、裏一面で大きく展開してくれた。

グリーン


そうして迎えた第3ラウンド。
岩田プロはそれまでとは一転、スコアが伸ばせず、我慢のゴルフを強いられていた。

ラウンド中盤。同じ組のブレンダン・ジョーンズが3連続バーディーを挙げ、一気にトップに躍り出た。
一方、何とかパープレーを続けていた岩田プロだったが、13番でついにボギーが先行した。

そのショックを抱えたまま迎えたのが、最難関の14番パー4だった。

岩田プロは第1打を左に大きく曲げてしまった。
ティーショットの落下地点近くにいるフォアキャディーは、ボールがOBゾーン付近に転がっていくのを確認した。

ただ、ゴルフコースは広い。
起伏もあり、林もある。ボールがフォアキャディーの死角に入り、確実にOBかどうかを見極められないこともある。

この時がまさにそうだった。
だからフォアキャディーは「青旗」を掲げた。

「OBの『可能性』があるので、暫定球を打っておいた方がいい」。
選手にそう伝えるためだ。

グリーン


暫定球を打ちます。

その「ひと言」を言うだけでよかった。
新岡キャディーもそう勧めた。

だが彼は「確実にOBだから必要ない」と首を振った。

冷静ではなかったのかもしれない。
完璧主義者ゆえに、内容の悪いショットをルール援用でリカバリーするのを、潔しとしなかったのか…。

いずれにしても岩田プロは「暫定球として打つ」との宣言をしなかった。
打ち直しのティーショットが、ペナルティーを加えた第3打となることが確定した。そして無言のまま、第4打地点へと向かう。

最初に放ったティーショットのボールが見つかった。
OBゾーンの手前、プレーが可能な場所だった。

グリーン


「らしさが出た感じです」

ラウンドを終えた岩田プロは、そう自嘲した。

「暫定球」と言ってさえいれば、見つかった第1打でプレーを続けることができていた。2罰打を科されずに済んだのだ。

彼はこのホールをダブルボギーとした。
この前後との計3ホールで、4つスコアを落とすことになった。本当にあっという間に、優勝争いから脱落してしまった。

さらに最終ラウンドでも、4つスコアを落とした。
通算1アンダー、21位で大会を終えた。

ペン


開幕直前まで仙台で過ごすことに、強くこだわった。

そんな岩田プロが、念願のツアー初優勝を果たしたなら。
被災した皆さんにとって、よいニュースになるのではないか。

僕はそう考えて、彼を追い続けていた。

こちらの思いが先走ってしまっただろうかー。
中日クラウンズの会場から帰京する新幹線。僕は車中でそんなことを考えていた。

単独首位に立った日の記事は、彼に重荷を背負わせる側面もあった。
もしかしたら、あのホールで冷静さを失わせる一因だったかもしれない。

車内販売のワゴンで買った缶ビールは、一口しか飲めなかった。
自分に「今週も取材おつかれさま」と言う気には、どうしてもなれなかった。

パソコン


その後ろめたさを、おそらく僕は4年間、ずっと引きずっていた。

僕は特別な思い入れを持って、岩田プロを取材し続けた。
本人だけでなく、新岡キャディーもマネージャーの山田さんも、本当によくしてくださった。

だがどこかしら、及び腰な関係になってしまっていたような気がする。
多くの選手と築けた遠慮のない関係を、肝心な彼とは築くことができなかった。少なくとも、手応えがなかった。

岩田プロは2014年9月、フジサンケイクラシックで念願のツアー初優勝を果たした。
僕はそれを、深夜のアメリカのホテルで知った。松山英樹プロの取材で渡米していて、現場に立ち会えなかった。

そのまま一睡もせず、コラムを書き上げた。
書きながら「やっぱり、彼とは縁がないのかな」と思ったりもした。

無性に寂しくなった。

ペン


その直後。
僕は4年間続けたゴルフ担当から、古巣であるサッカー担当に戻る内示を受けた。

最後の取材は、ツアー最終戦の日本シリーズJT杯。
最終日のラウンドが終わった後、僕はクラブハウスで岩田プロを見つけて、挨拶をした。

「本当にお世話になりました。なのに、あまり仕事で恩返しができなくて…」

彼は「いえいえ」と手を振って、少しの間の後にこう言ってくれた。

「大震災の後、記事を書いてくれたのは、本当にうれしかったです」

そこまで言ったところで、合わせていた視線をスッと外す。
遠くの方を見やり、しばし間をとってから、言葉を続ける。

「もし仮に、恩返しみたいなものが必要だったとしても、それはとっくに、あの時に済んでますよ」

努めて淡々と。できるだけ言葉に熱がこもらないように。
そんな素振りが、シャイな彼らしかった。

ペン


その「ひと言」で、僕は本当に救われた。

競技自体やアスリートの魅力を伝えつつ、読んだ人が何かを考えるきっかけもつくりたい。そう思いながら、記事を書いてきた。

岩田プロが「うれしかった」と言ってくれなかったら。
僕はそういう記事を書くのを、どこかためらい続けていたと思う。

担当競技を変え、さらには所属する会社も変わった。
それでも自分が大事に思うところだけは変えずに、記事を書き続けられた。

それはひとえに、彼のおかげだ。

◇   ◇   ◇



震災から、ちょうど10年。
あの中日クラウンズで、岩田プロが優勝をした。

最終ラウンド、10年前に青旗を掲げられた14番パー4。
岩田プロは3メートルほどのパットを沈めて、バーディーを挙げた。

グリーンエッジで見届けた新岡キャディーが、珍しく大きく手をたたいた。
ここで単独首位に立ったというのは、なんとも数奇なめぐりあわせだ。

10年の時をへていま、伏線が回収されていく。

これを書かなければ。
駆り立てられるようにパソコンを開き、ここまでつづっている。

スマホ


試合後。
僕はかなり迷った末に、岩田プロにショートメールを送った。

震災直後の取材を思い出して、感慨深いものがありました。
そう伝えると、すぐに返信があった。

「ありがとうございます!」

驚くくらいの即レスだったが、やりとりはこの「ひと言」だけで終わった。

本当に久々に、こんな時だけの連絡だから、当たり前だとは思う。
だが、たとえ僕が取材を続けている身だったとしても、おそらく同じようなやりとりだったのではないか。

それこそいかにも、岩田寛プロらしい。
そんな気がする。



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