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授業記録で「視点」を共有しあう

 もうすぐ発売の授業づくりネットワーク最新号のNo.48に、私が書いた授業記録が掲載される。内容は私の授業ではなく、横浜市の公立小学校の玉置哲也さんの理科の授業を私が見に行った時に書いた授業記録だ。10ページで8000字くらい。どうやって授業を見るのか、そしてそれをどうやって書くのかけっこう悩んで試行錯誤して書いた記録だ。ぜひ買って読んでいただきたい。玉置さんとクラスの子どもたち、とってもおもしろかった。


 今号は、『揃わない前提の授業を見る・感じる・考える』というタイトルがついている。前号で提案された、『「揃わない前提」の授業とクラス』とは具体的にどんなものか、「揃わない」授業とクラスをどのように記録に残して共有していくか、という大きなテーマがある。
 これまで私が書いてきた授業記録は、自分の授業を自分で記録したものが多かった。下の記事は、視覚特別支援学校の理科の授業を見た時に書いた記録。

 誰かの授業を見て記録するという経験があまりにも少なかったので、今回記録を書いた玉置先生の授業を見に行く前に、参考になりそうな授業記録や本を読み返した。この記事では、そのなかでも特に参考になったものを紹介しながら、今回の授業記録を書くにあたって考えたことをまとめておきたい。授業記録とこの記事を併せて読んでもらえば、なるほどそういう意図があるのね、と分かってもらえるかもしれない。記録では書ききれなかった意図を本に頼りながらここに書いて、言い訳してるだけじゃないかと言われそうだが、その通りだ。(笑)この記事を書いている今はまだ発売日前。まだ他の方々(私以外は絶対面白い書き手のみなさん)の記事を読んでいない。もしかすると、本誌の提案からは的外れになるかもしれないけれど悪しからず。

青山 新吾 (著)『エピソード語りで見えてくるインクルーシブ教育の視点 (インクルーシブ発想の教育シリーズ)』

 授業づくりネットワークの前号でも論考を書かれていた方の本。本書のなかで、「インクルーシブ教育をするということと、インクルーシブ教育の視点を持つことは似て非なるものである」という話が出てきて、なるほど確かに!と感心した。インクルーシブ教育の視点ってどういうことか?インクルーシブ教育をやってみようと思った時に、どうしても教育の手法や仕組み的な部分に目がいってしまう。そうではなく、教師がどういった視点をもって子どもの姿や振る舞いを見て、さらにその行為に潜む子どもの思いや願いを捉えるのか。そして教師がどんな選択肢の可能性を持ち、教師としての支援や行為を選択したのか。そんなインクルーシブ教育の「視点」を、エピソードを共有して振り返ることこそ、インクルーシブ教育の考え方を実現させるために必要だ。

「揃わない前提の授業とクラス」の視点


 この考え方は、「揃わない前提の授業とクラス」を考える上で、とても大事な考え方だと思う。今まさに、個別最適な学び、自己調整学習、単元内自由進度などなど、どうしてもやり方の議論が先行しがちだ。当然、授業記録を書く上でもやる上でも、その授業をどうやってやるのか、という部分にニーズが偏ってしまう。確かに、それをやってみたいと思った時に、やり方を知りたいと思うのは当然なことだ。しかし、「揃わない前提」のやり方をやってみた時に、「揃わない前提」の視点が無いと、子どもたちが何をやっているのか全くわからないまま、ただ場の揃わない雰囲気に目が行き、子どもたちがバラバラなことをやっているだけで授業者は満足する、という事態に陥りかねない。
 だから、「揃わない前提の授業とクラス」をつくる、ということと「揃わない前提の授業とクラス」の視点を持つということはまったく違う。

 これは授業記録を書く上で大きなヒントだと思う。授業記録というと、どうしても再現性を担保することが求められていた。教師がどんな意図を持って何を語り、それに子どもがどう反応して活動したのかを詳細に記述する。読み手がそれを読み込んで追試し、さらにそれを記述することで、読み手も書き手も互いの実践を検証し合う。
 しかし、「揃わない前提の授業とクラス」を記録するとなると、授業者も子どもも揃わない、当然子どもの思いも活動も揃わない。だから何が起きるのか全く予想できない。再現性とは正反対の、揃わない授業やクラスを授業記録にして、何の意味があるのだろうか?と言われそうだ。やっぱりそれは、「揃わない前提の授業とクラス」の視点を共有するため、ということなんだと思う。そして当然ながら、その視点をいったん言葉にするということに大きな意味がある。授業者自身もその視点を持っていることに気づいていない可能性もあるからだ。
 そう考えると、これまでの授業記録だって、詳細な記録を書き合い、読み合うことによって、それぞれの視点を共有し合うことが可能だったんだと思う。放課後に校内や校外のどこかの場所に数人で集まって、授業記録を囲んで読み合い議論する。そういう場があれば、授業記録は詳細な記録として成立し、それを土台に互いの視点を共有し合うことができる。そんな実践のコミュニティがなくなってきたことも、視点を共有できなくなってきた大きな要因かもしれない。
 SNSが実践を共有し合うこれまでのコミュニティの代替になれそうだが、むしろその逆というか、より再現性が研ぎ澄まされた、授業の「やってみた」的な情報のやりとりで終止してしまう。画面を介したやり取りでは、どうしても視覚的な情報に頼ったり、伝えるための時間を極力短くすることが求められる。

 大きく話が逸れてしまった。今回の玉置さんの授業記録は、玉置さんのクラスや授業に散りばめられている「揃わない前提」の視点を探るため、授業を見ながらとことん想像し、それを誰かに伝えるように文章にしたつもりだ。だから半分以上は私の想像であって、玉置さんがそう思っていたかどうかは聞いてみないと分からない。ただ、私が想像する玉置さんの授業やクラスを見る視点から、自分なら授業でその状況をどう見るか、どう捉えるのかと考えたり、どんなアプローチをするのか考えたりするきっかけになってほしい。そう思って書いてみた。
 ぜひ本誌を読み合って、いろんな人と話がしたい。

 少し長くなってしまったので、つづきは別の記事に。

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