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浪人時代の話(その9)

秋に入った。駿台のクラスメイトの灘のA君とこんなやりとりがあった。
「佐藤はなぜ東大文Iを目指しているんだ?」
「大蔵(現財務)官僚になりたいからだよ」
「それなら一浪以内に文Iが基本線らしいよ」
「そうなんだ。ありがとう」
というやりとり。
なんとしても文Iに入らなければ、という思いを強くした。

夏から秋にかけての駿ベネマーク・駿ベネ記述・全統記述(河合)・全国総合模試(代ゼミ)などが返却された。どれも文Iは微妙なところで文IIや文IIIなら合格圏と言ったところだ。「やはり文Iは無謀だったのかな」と自信を失いかけていた。

そんな折、下宿先で胸部圧迫感を覚え、苦しみを覚えるようになった。
女将さんには、5月頃に「ホームシックにかかったのではないか?」
と言われ、なぜだろう?と思っていたことである。
駿台のカウンセラーとの面談を入れても、「そんなことより毎日5時間の家庭学習はこなせていますか?」など的外れなことを言ってくる。
胸の苦しみにはこれからずっと悩まされることになる。
今の時代なら胸部圧迫感からメンタル疾患というのは結びつきやすいものであるが、ネットが一般普及していない時代であるし、知識も浅かった。後年、医師との問診で、高2くらいから胸部圧迫感がでていたことも確認できた。「精神さえやられていなければ、現役で文Iだったかもしれないのに」という思いは後年まで強く残った。

校内テストというものがあった。これは校内生向けのチェックテストである。ここではクラス内6位など上位につけていた気がする。意外と基礎的事項には強かったのかもしれない。駿ベネ記述模試では、東大クラス内順位は25人中10位くらいだったと記憶しているが、京大コースに換算すると、72人中6位程度であった。しかも京大文系コースは地歴は良い方の科目を2倍、東大文系コースは地歴2科目必須である。やはり東大と京大にはかなり差がある、と実感させられることになる。

後期の講義で講義中に、「〇×△≒※」と叫びだし、教室外に出て行った女性がいた。
後で聞くと、統合失調症だったらしい。
狂気を隠せないほど、とは受験はストレスを感じるものなのだな、と感じる。ただ、その彼女は二浪して阪大文系学部に入ったらしい。闘病生活を乗り越えて阪大とはスゴイとも思った。

9月末に駿台全国模試があった。
返却されると、あまり良くない判定。
ただ、英語国語は良かったので早慶文系は早稲田政経法慶應法もオールAだった。私の戦略としては、もちろん文Iには合格したいが、早慶は押さえたいと考えていた。ゆえに英語を重視して対策していた。
戦略が奏功したなと感じる。

また、河合塾大阪校で、Z会の早大即応模試を受験した。
こちらは出来がよく、早稲田法A判定だった。
文Iに落ちても早稲田法で司法試験でリベンジしようという気持ちが高まった。

そして秋の東大実戦。
出来はそれほど芳しくなかった。秋になり、難易度が急激に高まっていた。秋の実戦で良判定を出せる受験生は実力者だと思う。

一橋プレも受けた。こちらは法学部志願者で300人中30位の出来。
早稲田法と並んで一橋法も合格圏内だった。
手堅い受験生なら一橋法と早稲田法の併願という形にすることもあるのだろうな、と感じる。

秋の東大模試はあまりだった。
文Iは浪人を考慮すると多少厳しめ、文II文IIIならなんとか、というところ。
浪人生は判定が下がるのが基本線ではあるものの、危機感を覚えた。
また、マーク模試は地学の対策をしておらずさっぱりな判定が出る。とはいえ、英数国地歴の成績は安定していたので、地学さえ埋めれば良い、というところで自信はあった。

クリスマスイブには神戸大プレ、大晦日には慶大プレがあった。
神戸プレは200人中10番台、慶大プレは散々だった記憶がある。プレは難しい。
恋人もおらず寂しいので受けて実家に戻った。
神戸大プレでは京大志望のI君と一緒に受験をした。
そういえば、I君は夏の秋の京大実戦で経済学部20番だったが、文IIはC判定だった。やはり京大経済と文IIにはかなり差があるのかな、と感じられた。

灘のO君は夏の東大実戦は文IC文IIBだったようだが、秋は文Iも文IIもA判定で、かつ文IIで冊子掲載されていた。やはり灘の底力なのだろうか。
浪人夏から浪人秋までここまで成績を伸ばすパターンというのは私はあまり把握しておらず、凄まじいと感じた。
O君とは地学の講義に一緒に出ていた。

そして、センター試験の受験票がきたが、大阪大学豊中キャンパスが会場となった。現役時は地元の国立大だったが、阪大なのか、と自分が今、大阪に住んでいることが実感できた。そして年が明けた。

続く

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