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浪人時代の話(その12)

浪人時代の東大受験はそれほど記憶にない。
ホテルと新幹線のチケットは父に用意してもらった。
渋谷のホテルだったように思う。
2/24には駒場東大前のキッチン南海でカレーを食べ、喫茶店ZIZIでコーヒーを飲んだ記憶がある。

そして、いよいよ2/25にである。
国公立受験生は記憶に残っている日付だろう。
私はリベンジに燃えるというよりストレスで胸が苦しくなっていた。
今思えば、現役生時代からメンタルにダメージを受けていたのだろうが、浪人でさらにそれが高まった形だ。
入室時間が9時となっていたが、9時30分開始なら、ゆっくりしていても大丈夫だろうと思っていたが、実際は9時に入室しないといけなかったようで、会場の900番講堂に9時過ぎに入ると遅刻のような形だった。
ボーっとしているとということだろうか。
一科目目は国語だが、解答用紙が配られた瞬間に会場がざわついた。
それもそのはず、1999年までは文科の国語は7題だったのだが、2000年の解答用紙を見る限り、4題になっている。200字作文は消滅していそうだ。
ミレニアムということもあり、衝撃的だった。
試験が始まるが、あまり記憶にない。
現役時代の7題よりは時間的余裕があった。

国語が終わり昼休みが過ぎ、いよいよ勝負の数学である。
現役は加法定理の証明があり、微積がないなどトリッキーな出題であった。
今年はなんとか二題解きたいという気持ちが大きかった。
試験が始まると易化していそうだ、ということはわかった。
だが、完答ができない。一応答えらしきものはだした設問はあったが自信がない。手ごたえなく終了。
(また落ちたのか)
とかなりふさぎ込んでしまった。

そういえば、駒場の試験はチャイムではなく、サイレンだった記憶がある。当時は空襲警報と呼ばれていただろう。
試験が終わり、慶應文の発表を見に、三田に向かう。
慶應文は合格しており、早慶は確定させられ安堵した。
東大文Iを受けて早慶にもかからないということになると記念受験の誹りを受ける可能性があったからである。

そして、2/26になる。
得意の地歴はそれなりにできた記憶がある。
世界史ではミレニアムにちなんで20世紀の出題があったと思う。
当時は大問3は20題小問があり、今も20点なのだろう。

そして最後の英語の時間である。当時の東大英語はそれほど難しくはなかったと記憶している。80点くらいは取れたように思う。
数学ができなかった分、やはり今年も厳しいだろうか。
そう思って900番講堂を出る。
駒場の校内で駿台の同期の灘のA君と顔を合わせる。
「いやー、数学全完したけれど、英語できなかったから自信ないわ」
と余裕そう。数学全完というのは灘のお家芸なのだろうか。昔から灘生にはそういう発言が多い気がする。
(受かったんだろうな)と思う。
私は、「いいなあ。僕は後期を受けに来るよ」と伝えた。

試験が終わり、生徒会長のT君にサッカー部の先輩を紹介してもらった。
T君の友達のI君と供にご飯を食べた。先輩は秋の東大模試はB判定。物理は6点しか取れなかったが、本番は40点以上取れたという。ここでも、「僕は前期ダメだったので後期を受けに来ます」と空気を壊す発言をしてしまった。
三人ともコメントに迷っていた。
数学の出来はT君が2完2半、I君が1完3半ということだった。
私はあまり記憶にない。0完4半か0完3半だったか。ただ、それほど得点は見込めなさそうだ。20点くらいというところだろうか。文Iは40点は必要との話で、センター試験も悪く、後期勝負だなと思わされた。

その後、大阪に戻り、早稲田法の合格を知る。これもまた逃げの姿勢ではあるが、(東大文I落ちで早稲田法なら形は作ったな)と自分を納得させていた。後期対策をしっかりすべきなのだが、手がつかない。

そして、3月10日である。後期の受験票はその場で配布ということもあり、母と一緒に東大まで行った。
人混みを掻き分けて掲示板の前に行ったが、そこに私の番号はなかった。まあ、想定した通りではあったが、「ひょっとして」という期待が裏切られ、ダメージは受けた。そんな折、「佐藤君」と声をかけられた。振り向くと、高校の同級生のUさんだった。Uさんは高校入学組だが、現役で文Iに合格した才女であった。「どうだった?」と聞かれたが、「落ちていたので後期受けに来るよ」と伝えると、気まずい雰囲気になった。
その後、母に落ちていたことを報告する。「残念だったね」と言われ、後期の足切り発表を見る。後期の足切りは通過していた。そこで受験票を発券してもらう。東大の男性職員と思われる方に、「お母さん大変ですね」と声をかけられる。「私よりこの子が大変なので」と返していた。私の主観ではなく、他の方によく言われる話だが、母は中高でクラス1の美人だったらしい。よく男性に声をかけられると言っていた。今思えば、この声かけもそういう話なのかなと思う。

周りの友人たちからの合否確認を一通り終え、私大の振込は早稲田法に済ませ、後期でワンちゃんないかと思い、本郷周辺のホテルに泊まった。
3/13は東大後期である。後期は前期が点でダメでも合格することがあると聞いていたのでワンちゃんと思っていた。
一科目目の英語論文の試験ではかなりできた。これは合格するのではないか、と期待が膨らむ。

昼休みには、駿台・代ゼミのメンバー5人が揃う。北野のA君、土佐のH君、A君、洛南のK君に私である。私が、「みんな合格するといいね」というと、土佐のA君が、「それはないやろ」と現実的なことを言う。

午後からの日本語論文で支離滅裂な解答をしてしまい、不合格だろうと思う。
自信なく、実家に戻った。

後期の発表は3/23だったろうか。後期もまた東京まで新幹線で見に行ったが、不合格だった。
掲示板の前で立ち尽くす。
だが、気持ちは来年に向けて切り替わっていた。
(仮面浪人で二浪で文Iを目指そう)
意識はそうなっていた。

下宿先に戻り、おかみさんに報告する。
仮面浪人を考えているという話をすると、「今は若い人が官庁でも好まれますよ」と仮面は暗に否定された。
この言葉を聞くべきだったかもしれないとは今は思う。
一浪早稲田法で納得して国Iを目指すという手はあったからだ。

浪人仲間の合否がある程度出そろってきた。
河合で浪人したT君は文IIIにI君は文IIに合格していた。
高校時代の友人のF君は阪大法、高校のクラスメイトのOさんは東大前期に落ち、後期で一橋法のようだった。
下宿の同僚のF君は東北工に落ち大阪府大中期に合格するも蹴って同志社工。
駿台の東大受験組では、洛南のK君は不合格、灘のK君は文Iに合格、灘のO君は文IIに合格、灘のA君も文Iに合格、白陵の男子学生も文Iに合格、高槻の男子学生も文Iに合格と駿台大阪校からは5名が東大に合格したようだった。クラスに25名いて5名合格とはなかなか厳しい。寮の友人のI君は京大経済に合格していた。そのような形で浪人は幕を閉じた。

そして私は仮面浪人を前提として早稲田法に入学することになるのである。


浪人編終了です。
仮面浪人編も執筆予定ですのでぜひお待ちください。

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