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「肩書きのない自己紹介」をやってみる。

私が愛してやまない増村江利子さんが書いていた「肩書きのない自己紹介」。数ヶ月前からそのワードがいたく頭の片隅に引っかかっていて、そのことについてグルグル考えていました。

そんなに肩書きは気にしていないつもりだし、肩書きで仕事をしているつもりもないのですが、はてさて、どんな言葉が出てくるのだろうかと。
何かを「言語化する」ことは、その何かを「固定化する」ことを含んでいると思います。自身を固定化してみながらそれを足場として、さらなる広がりを感じてみる。その広がりが、浪速の串カツ屋や下町の鰻屋の秘伝のタレのように継ぎ足し継ぎ足ししながら、渾然一体と自身の味になっていく。

今、現時点での自分をここに留めて。
未来で感じたことや考えたことを付け足して、また留める。
そんな使い方ができたらいいなと思い、記してみます。

半径50cm以内にある「手触り感」が好きです。
何か世の中の遠くで起こっているものごとは、なかなか自分ごとになりません。世の中や社会という単語そのものや、その大上段で語られているものごとも、あまりしっくりきません。その言葉が語られるようになった、その人自身の手触りがあるストーリーがないと、理解ができないのです。遠くのものごとは、ストーリーを持って人から語られることで、すっと身体に入ってきます。
私自身も、そのような言葉を語りたいです。だからこそ、ひとつひとつの体験や、生活の手触り感や、感じる違和感を大切にしながら、日常を営みたいと考えます。

自分を表現する手法は「言語化」です。
その人自身を表現するのに、様々な手法があります。歌舞音曲もそうですし、絵画、デザイン、彫刻、写真、などなど。私はその中でも「言葉」や「言語化」でしか、自身を表現できないです。自然の景色、誰かの想い、琴線に触れたよしなしごと。それらを言葉で表現したくなります。そういった意味では、自分は言語というフィルターを通して世界を捉えて、認識している気がします。
だからこそ、それらを美しく歌い上げた和歌とか三高の寮歌とか(偏愛についてはこちらを参照)が好きですし、そのような文章を書ける人を尊敬します。

「そもそも」を問い、ルーツを探るのが好きです。
いま、眼前に見えている景色や、或いは人が為していること。それに対して、目に見えないところにどんなルーツがあって、どんな必然性のもとにそれが生まれ育ってきたのかという「そもそも」を掘っていくのが、堪らなく好きです。
例えばある地域に目を向けると、そもそも地形的要因や気候的要因が絡んでその土地が起こってきて、そこに人為的な歴史的背景や宗教・文化的背景が存在した上で、いま、その土地が形成されていて、人が生活を営んでいるわけです。
また、人が為していることも、その人自身が大切にしている価値観や、その価値観が形成されていった原体験が存在し、そのストーリーやコンテクストの中で、今のその人自身が存在しているわけです。
それらを解きほぐして、空間的に再構築して、言語化する。多分、自分はそんなことが好きなんだと思うんです。

一つのテーマを、時間をかけて考えるのが好きです。
表現が難しいのですが「ビジネス書よりも、小説や随筆が好き」と言えるかもしれません。読んで理解すれば使えるような即時的なノウハウやツールよりも、自分の理解がまだまだ及ばないものや経験によって見方が変わってくるものを、自分の頭の中の片隅に置きながら、経験の中で触れるものごとと掛け合わせ、再定義したり他の事象と組み合わせたりしながら、その解釈を言語化していくのが好きです。
ビジネスや仕事だと「スピード感」「即断即決」「成果」を求められますが、個人としてはそこから一歩離れた形で時間をかけてものごとを醸成していきたいですし、それらが文化や哲学といった、ちょっとやそっとじゃ倒れない土壌と太い幹を作っていくと信じています。

ディテールにこだわるのが苦手です。
「神は細部に宿る」と言いますが、その細部にまで神経を使うというのが、たまらなく苦手です。大雑把、荒削りなんで言葉も思い浮かびますが、何かしらそのことに対して芯が通っていて、変な方向に向かわないところまで軸が確立できているのであれば、あとは割とどうでも良かったりします。
あ、でも何かを自分のオーナーシップの元で企画したりファシリテーションするときは、やけに細部までシミュレーションできてないと気が済まなかったりします。仕事という意識だからなのだろうか、人間って複雑です。

春と秋が好きですが、夏と冬は苦手です。
夏とか冬って、延々と「その季節が続くんじゃないか」という幻想と、その幻想によって「なんか停滞している」「おんなじ思考がグルグル巡っている」みたいな形で精神にも影響をきたしていくので、あまり得意じゃないです。
1日1日が変化して、移ろっていく季節が目に見える。そこから切なさの香りを嗅ぎ取って、神経が研ぎ澄まされていくような、そんな感覚が好きです。
これは多分、季節だけじゃないものごとにも、当てはまる気がします。

様々なものごとに於いて「中庸」の見方をしたいと思います。
世の中は決して対立構造の2軸でできているのではなく、その中庸というのも在って然るべきだと思ってます。何か自分の主義や思想を広めようとする時、必ずと言っていいほど既成の概念などをアンチテーゼとして論う風潮があります。でも、それぞれにはその裏側に、必ずそれらが生まれて正しいとされたバックグラウンドがあると考えます。
政府と国民、資本主義と共産主義、貨幣経済と信頼経済、経営者と社員、PDCAとOODA、死なないようにすることと善く生きること、イノベーターとラガード。ともすれば対立構造になりがちなそれらを、それぞれのバックグラウンドや思想を解し、その中庸としてものごとを観察していきたいです。

「自然」で在ること、その一部であることを大切にしたいです。
人の世も社会も、もっと大局的に見れば自然の一部です。私という一個人も自然の一部であり、また自身の中にも自然が存在します。なんだか宗教的ですが・・・笑
人口減少や少子高齢化、空き家や耕作放棄地など、様々な社会課題があります。新型コロナのような「人類の未曾有の危機」的なものもあります。でも、それって自然の一部として捉えたならば、どういう解釈ができるのだろうか。そもそも自然という見方をするのであれば、それって問題と定義されることなのだろうか。
その思考アプローチを忘れないよう、自身の中にある自然を大切にしながら、日常の中に「自然」を取り入れ、日々を紡いでいきたいと思います。

少数の本当に好きなものと長く付き合いたいです。
例えば本。高校で読んだ坂口安吾、大学で読んだ梨木香歩が好きで、座右の書として今でもことに当たって繰り返し読みます。漫画だと『風の谷のナウシカ』かしら。好きなアーティストも昔からあまり変わっておらず・・・感性が鈍っているのかなあ。
よく「たくさん友人がいる」と言われます。あんまり「友人たくさん作るぞー」とは自分で思ってなく、然るべき人と、然るべき信頼関係を築いて、ふと「嗚呼、今日は誰かと呑み語りしたいなあ」という時に、パッと浮かぶ人が数名周りにいれば幸せを感じます。故郷が遠く同窓会にも出ないので、昔からの友人で今でも連絡を取る人は数名です。
これからの人生でも、その繋がりを大切にしていければなと感じます。

自分の行動や存在の理由を常に見出していたいです。
「何故」を常に問い続けていたいです。自分が存在する理由や、自分が何か行動をする理由を常に考え続けていきたいです。
昔から「誰もが信じて行動している一般論」があまり信じられないです。それが「どこから見ても良さそうなもの」であったとしても、みんながやっていることだったとしても(多分、その感覚からこの記事も書いた気がします)。
自分が何故それをやっているのか、それが自分や周りに対してどのような意味を為すのか。自分でも面倒くさくて生きづらい時もありますが、常に向き合い続けたいと思います。

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(書いてみて思ったこと)

他にもいろいろなことが浮かびますが、とりあえず10個書いてみました。
三枝を知っている方からすれば「いや、言われるまでもなく三枝そのまんまやんけ」と言われそうですが・・・笑

梨木香歩のエッセイに『ぐるりのこと』という本があります。
彼女自身がそう捉えているかは分からないですが、私は梨木香歩が紡ぎ出す小説の原点がそのエッセイに詰まっている気がしてます。
何故自分は文章を書くのか、創作をするのか。その中で、どんなことを語りたいと思うのか。
様々に出している本に共通して突き刺さっている軸や柱のようなものが、そのエッセイの中で語られ、見出せるように思うのです。

この「肩書きのない自己紹介」も、私自身が肩書きなく仕事でもないのに書いてしまっているnoteの記事の原点として、自分が書きたいことの軸が詰まったものとして振り返れるといいな、と思います。
文章を書くことと、この記事を振り返ること。その相互作用から、この記事の内容も、どこかを削除したり継ぎ足したりしていきたいなあと。
(・・・結局書いているうちに「何故、この記事を自分が書くのか」という思想に行きついて後書きをつけてしまった。)

読んでいただいた方の「肩書きのない自己紹介」も見てみたいなーと思います。
是非、書いてみてくださいー!!

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