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温泉ボクシング

温泉の楽しみはそのお湯だけにあらず。
その土地の料理や酒、景観、周囲の観光地、そこまでたどり着く車窓の眺めなど、楽しみは多岐に渡る。
その旅館にしつらえたちょっとしたアトラクションもその楽しみの一つ。


「温泉ボクシング?」
温泉旅館の大浴場の前にしつらえられたリングを目の前に、戸谷マモルは戸惑いを隠せない。
「ね、面白いものがあるでしょう?」
マモルのクエスチョンマークに通りかかりの仲居が答える。
「普通は卓球台でしょ? 普通じゃ面白くないからって、逆転の発想」
「ボクシングと卓球じゃ、どう裏なのでしょうか?」
「ねぇ、面白いでしょう?」
と、仲居の返答はまとを射ない。
「でも相手がいない」
「サンドバッグ叩いてる間に、誰か来ると思いますよ」
仲居がグローブを渡してくる。
「叩き方がわからない」
「適当でいいのよ、適当で。温泉卓球だって、適当でしょ」
「それもそうだ」
マモルはグローブをはめ、サンドバッグに対峙する。
殴る。
サンドバッグが軋む。
ずっしりと拳に伝わる反動にマモルは驚きと興奮を覚える。
もう一発、もう一発。
フォームなどお構いなしに、マモルはサンドバッグを連打していた。


本来なら今頃、会社の同僚である木崎アユミと動物園デートしているはずだった。
昨夜、ドタキャンされてしまった。
無理矢理こじ開けた土曜日がフイになってしまった。
マモルは怒りの暴飲暴食をするでもなく、
動物園でひとりフラミンゴショウを見ながらたそがれるでもなく、
1人ドライブを兼ねてここ九州はM温泉を訪れたのであった。
予約サイトで詳細まで確認せずに、ただ空いていたというだけで、この旅館を予約した。
温泉ボクシングがあるとは思いもせず、サンドバッグを叩いている今の自分に滑稽ささえ感じた。
ドタキャンしたアユミへの憤り、
いやらしく絡んでくる上司・浜谷への怒り、
30代半ばまでパッとしない情けない自分への戒め。
拳を繰り出すエネルギーは沸々と湧き上がってくる。
マモルは無心になっていった。


「ふう」と溜息と共に額の汗を拭う。
気は晴れた。
あとは温泉で一汗流すだけ。
案外、温泉ボクシングは温泉卓球よりもマッチしているかもしれない。
「なにこれ、リング? おもしろーい!」
聞き慣れた女性の声。
振り返るとアユミが男と一緒にいた。
男は上司の浜谷。
マモルはアユミから「浜谷からパワハラを受けている」と相談を受けていた。
その気晴らしのために動物園デートに誘ったのだった。
そのデートをアユミがドタキャンした理由は、あのにっくき浜谷との温泉旅行にあったのだ。


マモルはグローブをひと組み掴むと、浜谷に投げつけた。
いきなり投げつけられた浜谷とアユミはそこでようやくマモルの存在に気づいた。
「違うの、戸谷くん、これは」
と釈明しようとするアユミ。
「課長、リングに上がってください」
指名された浜谷は戸惑っている。
「戸谷くん、これは」
「温泉ボクシングです。俺の相手してくださいよ」
浜谷は渋っていたが、マモルの迫力にようやくリングに上がる。
「ハマちゃん、頑張って!」
アユミがゴングを鳴らす。
ヒョロ細く、餓鬼のように腹が出ている浜谷の動きは悪い。
マモルはあっという間にコーナーに追い詰める。
稚拙なガードの浜谷の顔面を、マモルの未熟な拳が襲う。
一発、二発、吸い込むように拳が顔面に入っていく。


浜谷の鼻から鮮血が流れ出たところで、手拭いがリングに投げ入れられた。
アユミが試合を止めたのだった。
「そこまでよ、戸谷くん」
「アユミ、そんなにその親父がいいのかよ」
「そうよ」
「俺のことはどうでもいいのかよ」
「そうよ。だって、私たち、付き合ってるとかじゃないじゃない。ただの同僚じゃない」
「それはそうだけど」
「それに、あなた、私がミスしても全然かばってくれやしなかった。ハマちゃんは色々と指導してくれるから、好きになっちゃった」
「そうか。行け。温泉入れ。ここの温泉の効能は打ち身、捻挫だ」
「いんや、うちの効能は子宝だ」
いつの間にか観戦していた仲居が訂正する。
「そうか。子供を作る気なのか。行け」
アユミと浜谷が済まなそうに大浴場へと姿を消す。
「まぁ、気を落とすな。気晴らしに射的でもするか? 温泉といえば射的だろ」
仲居が銃を渡す。
マモルが引き金を引くと、弾丸が電球を撃ち抜いた。
「実弾が入っている。行け」
仲居が大浴場を指す。

(糸冬)

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