消しゴム
近年、 ペーパーレス化が進んでいる現在でも、私はやはり、その心許なさに文を書く時は原稿用紙に鉛筆で書かないと気が済まないのだが、書き損じた時は消しゴムを使う。
当たり前のことだが、 書き損じれば書き損じただけ、 消しゴムは登場して、文字通り、その度に身を削って原稿用紙を白紙に戻してくれる。
この消しゴムの存在を改めて考えた時、私は一つの形としてその役割を与えられ、そして消えてゆくものたちのことを、初めて真剣に考えたような気がする。
私のことを、何も知らない人が読んだら「この人の神経は大丈夫か」 と、怪訝な顔をされてしまいそうだが、そんなことに思いを巡らすようになったのである。
これは消しゴムに限らず鉛筆も然りである。
書き損じては消し、消しては書いてを繰り返し、何か大切な用事を忘れないために、 自分の思いを誰かに伝えるために、その日を記録するために、自分の創作を残すためにと、理由は様々だが、こんな具合で鉛筆もまた、役割を果たして身を削っては最後に消えてゆく。
感情があるかないかの違いなだけで、人間もこんな風に、何か大なり小なりの役割を与えられて、この世に産み落とされて来るのかもしれない。
身を削ってとはよく言ったものであるが、人間は身を削ったりしてはいけないのである。
いつか消えてゆく定めであっても、人間は消しゴムではない。消しゴムでさえ、その個が粉々になってしまっては何の役にも立たないのである。
しかし、消しゴムは人が書き出した都合の悪いこと、失敗をなかったことにし、元にあった正しい道へと引き戻すことが出来た時、初めて消しゴムという本来の役割を果たすのである。
精一杯、書いては間違い、間違っては消して、自分の心が間違いでないようになれたら、消しゴムも冥利に尽きるというものではあるまいか。
どうせ消えゆく定めなら、盛大に書き損じて、その身を削り尽くしてやろうではないか。
その結果、誰かに私のこの一文を届けることが出来るのであれば、消えゆく定めの消しゴムも、大手を振って喜んでくれるのではなかろうか。
そうは言っても、やはり多少はその身を削って書かなければ良い作品は生まれない。
ここに来て、私もその身とやらを少し削って書かなければと、気持ちを新たにし直している。
ふと、右手側の机を見たら、消しゴムの千切れたカスが山のように散らばっている。
今日も、消しゴムはその身を削って、私の創作活動を手助けしてくれている。
良いものを書きたい、と改めて私は思うのである。
(二〇二三年七月五日)