見出し画像

虹が立った

 タイミングが良かったといえば良かったのかもしれないが、悪かったと言えば悪かったのかもしれない。
 昼下がり、野暮用で炎天下を歩いていたが、余りの暑さに耐えかねて、コンビニエンスストアに駆け込んだ。いつもは飲まないアイスココアを買い、会計を済ませて店を出ようとした時だった。
 自動ドアが開くと、さっきまでの晴天が嘘のように、外は滝のような雨が降っていた。それはまるで雨のカーテンである。先が見えないくらい真っ白に雨は降っていた。
 こんな日に限って傘を忘れた私は成す術もなく、開いた自動ドアの向こうに踵を返して入り込み、雨がやむのを待っていた。
 すると、通り雨だったのか、段々と空は明るくなり、滝のように降っていた雨も粒は大きいが、小降りになって来た。
 真っ暗だった空も真っ青に晴れようとしていた。   
 その時だった。私が視線を向けた先に、薄ぼんやりと虹が立っていたのである。虹を見たのは何年振りだろうか。
 私はすっかり童心に返り、ずっとしばらく虹を眺めていた。
「そうだ、 この虹を見た喜びを誰かに伝えなくては!」
 私は何故だかその時そう思ったのである。
 けれど、写真に撮ったところで、これは目の前に立った虹をその目で見ることが出来なければ、同じ感動は味わえない。
 そう思った私は、さっき、スマートフォンのポイントカードを提示する際、中々画面が切り替わらずもたもたしていた時に、笑顔を絶やさず辛抱強く接してくれた、若いレジのアルバイトの子に思わず声を掛けた。
「ねぇねぇ、虹が出ているよ!お客さんもいないことだし、ちょっとこっちに見に来ない?」
 私がそう言うと、若いアルバイトの子は、
「本当ですか?!」
と子供のような顔をして私の元へやって来ると、私が指差した空に視線をやった。
 すると、若いアルバイトの子は、
「虹を見たのは何年振りだろう」
と、私と同じことを私に言った。
 私は思わず笑ってしまった。
「考えることはみんな同じだね。ごめんね、呼びつけちゃったりして」
 そう詫びると、若いアルバイトの子は私に笑顔で礼を言い、レジカウンターから出たついでに商品棚をチェックしていた。
 たかだか、いくらにもならないポイントのためにアプリケーションの電子カードを表示させるのに、若いアルバイトの子は嫌な顔ひとつせず、根気よく付き合ってくれた。
 仕事と言ったらそれまでだが、そのことが私の心の中にあったから、私はお詫びにこの虹をその子に見せたくなったのだと思う。
 感じが悪かったらきっと私は、虹を独り占めしていたことだろう。
 人間とはそういうものである。
 さっきまで顔も知らず、言葉も交わしたことのなかった人間と、一瞬の時間であれ、うっすらと見えた虹を一緒に見たのである。そして、喜びを分かち合ったのである。  
 普段の生活でこんなことはまずはない。
 どこか悪い意味で、人に対して無関心なところがある。それは時にはいいことかもしれないが、滅多に見ることの出来ない虹を、私は誰かと一緒に見たかった。親切にしてくれた若いアルバイトの子に見せたいと思ったのである。

 いつだったか、何年も前に今日の虹よりもはっきりと見えた時も、いちばんに伝えたかった人に写真に撮って送ったことがあった。
 その時は、相手も違う場所から同じ虹を見ていたことが分かり、私は酷く嬉しかった。そう言えば、私が最後に見た虹もあの時の虹だった。

 その人も今はもういない。

 一瞬で消えてしまうものだから、忘れないように誰かと一緒に見ておきたい。心の何処かでそう私は思ったのかもしれない。

 今度また虹が立ったら、私はまた同じことをするだろうか。それはどうだか分からないが、そんなお節介さはずっと持っていたいと思うのである。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?