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女優・杉村春子さん命日

2021年4月4日(1)

今日、4月4日は春馬くんも受賞した『杉村春子賞』の基になった新劇界の大女優・杉村春子さんのご命日だ。

杉村春子さんは新劇の草創期である戦前から、長年日本の新劇界を牽引したシンボリックな大女優だった。

戦後間もない1949年、小津監督がメガホンを取った映画『晩春』から小津作品の常連となり、成瀬巳喜男、黒澤明、木下恵介をはじめとする数々の名監督の作品に出演。

テレビ放送が始まると、橋田壽賀子や石井ふく子の一連のドラマにも数多く出演。

本業の舞台は常に劇団『文学座』の看板女優として、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』や森本薫の『女の一生』『 華々しき一族』三島由紀夫の『鹿鳴館』有吉佐和子の『ふるあめりかに袖はぬらさじ』 等々、数々の名演を残した。

近いところでは 『放浪記』をライフワークにした女優の森光子さんは、彼女を敬愛し舞台で共演を実現させたし、黒柳徹子さんはNHKに入って己の演技の未熟さを感して『文学座』を選び研究生になった。

森さんは彼女を尊敬して必ず『杉村先生』と呼んでいたし、黒柳さんは今も彼女の名前を口にする時は大抵『杉村先生』と呼んでいる。

まさに新劇界に留まらず日本の大女優として、1997年に桜咲き小雨降る日に癌で亡くなるまで、第一線で活躍し続けた。

文字通り新劇界の伝説的存在だった。

『杉村春子賞』とはそういう偉大な人の名を冠した賞なのだ。 

杉村春子さんも時代が重なれば、若くて才能豊かで努力家の春馬くんを大層気に入って、舞台での相手役に彼を指名したかもしれない。

2021年4月4日(2)

このシーンをもう一度やれと言われても、きっと最初の芝居をなぞっているようになって、役者の緊張感も途切れてしまっただろう。

しかし本当にこう見ると、贔屓目で見なくても春馬くんの存在感が凄い。

2022年4月4日(3)

昨年は春馬くんが受賞した杉村春子賞について書かせて頂いた。

その杉村春子さんについてもう一つ、昨年は書かなかったことも含めて、今日は彼女の命日だから書こうと思う。

彼女は文学座の新劇女優だった。まだ新劇が日本の黎明期の頃から女優を志した人だった。

本当は本人は声楽家になりたくて上野の音楽学校を受験したのだが、二度受験して落第したというほろ苦い経歴を持っている。

その彼女がある時女優に目覚め、老け役から娘役まで様々な役を(彼女の場合は順番が逆だった)こなす芸達者な女優になって行く。

昭和1945年、戦況が悪化する中公演中に空襲警報が鳴り響いても鉄カブトを被り、森本薫原作の『女の一生』を上演し続けたことは彼女の長い女優人生の象徴として、今も広く語り継がれている。

その彼女が女優生活70年を超えるその頃だったか文化勲章の打診があった。

けれども彼女は二つの理由で、一つは公にはしなかったが二つの理由を持って固辞した 。

一つは勲章などぶら下げて長屋の女将さんなどやれない。要は役を演じるにあたって邪魔になるものはいらないと。それは本当かどうかは彼女にしか分からないところだが、表向きにはそのような理由からだった。

ただ僕がもうひとつの彼女の発言から思うに(それは文化勲章打診前)同時代を生きた新劇仲間のうち、日中戦争で戦死した友田恭助、そして彼の細君であった田村秋子という優れた女優(と言われている)はその後芝居をしなくなり、女優を辞めてしまった。

そして何より彼女は上記した最初に始まった日中戦争で戦死した友田恭助と、戦争が終わる直前に広島で巡業中に原爆によって命を奪われた盟友丸山定夫の死というものを、死ぬまで忘れることはなかったようだった。

図らずも杉村・丸山両氏は広島が同郷だったこともあり、生前は舞台や映画で多数の共演を重ねていたことから親しみを持っていたようだ。

彼らがいないからといって自分だけその勲章をもらうわけにはいかない。彼らの犠牲があったからこそ今の新劇界があるのだという思いが、彼女の中にはずっとあったようだ。

今の時代とは人間の持つ資質というものも、心持ちや思い遣りも比べ物にはならないが、これも映画『太陽の子』の時代に実際にあったことだったので、今日また一年後の彼女の命日にポストすることにした。

それともう一つ、どんなに偉大な人であっても語り継ぐ者がいなければ、人々の記憶には残っていても話に出て来ることは減って行く。

それは時代が変われば世代も変わる。

仕方がないことなのかもしれないが、こうした偉大な先輩方と一緒に彼も役者・三浦春馬も今後、沢山の人々に語られていくようにそんな願いも込めて、杉村春子さんに思いを重ねて今日は長々と書かせて頂いた。

         インスタグラム掲載文を復刻。

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