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ショパン・ピアノ協奏曲第一番 ホ短調

毎年、桜の季節がやって来ると無性に聴きたくなる音楽がある。

 私は最近、ボーカル曲よりも声の入っていない 楽器だけの音楽に心安らぐ傾向にある。そんな私が長年、見ることが苦痛だった桜を見ながら聴きたくなる曲というのが、ショパンの「ピアノ協奏曲 第一番 ホ短調」である。

 ショパンはその生涯で二曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、この第一番はとてもポピュラーな曲としてクラシック愛好家だけに留まらず、多くの人々に親しまれている。 
 私もご多分に漏れず、とりわけこの第一番の方が好きである。

 第一楽章は荘厳な雰囲気漂う威厳のある曲想で、とは言っても、私はこの曲について詳しく調べたわけでもなければ、音楽を専門的に勉強していたわけでもないから、耳にしたまま受けた印象をそのまま書いているだけなのだが、その方が逆に率直な感想が書けて良いと、自分を正当化している。
 第二楽章は、人生の輝ける日々をまるでピアノで歌うような美しい旋律が印象的で、満開だった桜が風に吹かれてハラハラと散る儚さと潔さが重なり、胸に染みる。
 第三楽章は、一転、緑が芽吹くかのような溌剌としたロンド形式が、第二楽章を聴いて切なくなった胸を再びときめかせるような、そんな華やかな曲調で力が漲るようにエンディングを迎える。 

 ピアノ協奏曲もショパンをはじめとして、ベートーヴェンやモーツァルト、グリーグやラフマニノフといったさまざまな作曲家が素晴らしい作品を残しているが、やはりショパンのピアノ協奏曲はその中でも、特に二曲どちらもロマンチックな雰囲気を漂わせている。さすが、ピアノの詩人と呼ばれるだけある作曲家である。

 私はここ数年、遠く離れて暮らしている友人にいつもの場所で、ショパンのピアノ協奏曲第一番を聴きながら、写真を撮って送っている 。

お花見にやって来た月
photo by daisukenta 

 毎年しだれ桜やソメイヨシノを写真に撮って送っていたのだが、今年は初めて動画を撮り映像で送った。
 アプリケーションを使って映像に曲を被せることも出来るのだろうが、私はそういうことは得意ではないのでやらなかったが、ショパンのピアノ協奏曲第一番と桜は本当にピッタリ合うと感じる。
 ショパンはもしかしたら桜を見ながらこの曲を書いていたのではないかと、そんな風に思えてしまうくらい、このピアノ協奏曲第一番、特に第二楽章はあまりに美しく儚い。
 ショパン自身も若くして世を去ったが、彼がもし四十歳、五十歳、六十歳と生きながらえることが出来ていたら、一体どんな曲を書き、そして、どんな曲が書けなくなり、どのように今に伝えられていたのかと思うと、私はまたその生涯も儚く散って行く桜に重ねてしまうのである。

 毎年桜を眺めては、来年も何も変わらず見ることが出来るのだろうかと、漠然とだが思うようになった。
 それは世の中の不条理や理不尽さ、そして、大切な人を失ったことのある人なら、誰もがそんなセンチメンタルな思いを抱いてしまうのではないだろうか。
 桜を眺めるということは、私にとってはショパンのピアノ協奏曲第一番が人生の中でこの上もなく美しく聴こえる短くも最高の季節であり、そして、今は亡き大切な人々を懐かしく、そして少しだけ感傷的に思い出す儀式でもあるのだ。

今年もまた、桜が咲き、その花びらが儚く散って行く。また来年もこの場所で会おう。私の大切な人々よ。

         2023年3月29日・書き下ろし。


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