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下駄の音

カランコロンと昭和時代の街の中では、男も女も大人も子供も、皆、素足で下駄を履いていたものだった。

しかし、いつの頃からか、日本人の履き物は靴に取って代わられ、下駄を履くことはなくなってしまった。 昔の日本人は、足の親指と人差し指が鼻緒を突っ掛けるのに、開いていたという。

私が好きなテレビドラマで、中村雅俊主演の『俺たちの旅』がある。このドラマは鎌田敏夫脚本による、名作の誉れ高い青春ドラマである。

主役の中村雅俊演じるカースケは、裾広がりのパンタロンジーンズを穿いて、いつも黒い鼻緒の下駄を突っ掛けては、ドラマに登場したものだった。

1970年代の日本では、まだまだ若者が普通に下駄を履いていた。それは彼等の子供時代の名残というものが、どこかにあったせいかもしれない。

昭和のテレビ界にその名を残した、もうひとりの名脚本家・向田邦子もこの下駄に思いを込めたシーンを書いている。

そのテレビドラマとは、NHKで放送された土曜ドラマ・向田邦子シリーズの中の一本である『阿修羅のごとく』でのワンシーンである。

姉の綱子(加藤治子)の家を訪ねた妹の巻子(八千草薫)は、何とも間の悪いことに姉の綱子と不倫相手(菅原謙次)が、その行為を終えたかどうかというだらしのない格好で、先に注文しておいた鰻重が届いたとばかり思い、玄関の向こうに巻子がいるとは露も思わず、綱子は景気良く玄関を開けたのだった。

巻子は見てはいけないものを見てしまったと思い、力任せに玄関の戸を閉めて、バス停へと一目散に駆け出して行ったのだった。

まさにこの時である。

綱子が下駄を突っ掛けて巻子を追いかけ、成り振り構わずバス停まで全速力で走って行くシーンなのだが、ここでカメラは「カツカツカツ」という下駄の音と共に、綱子の素足を映し出す。

そのシーンは、綱子の顔を映しては足元の下駄に切り替わってと、カメラワークも素晴らしく、何とか綱子は巻子に追いつき、バス停の前で人目も憚らず、小競り合いをし始める。

その時もまた、綱子の足元の下駄が映し出されるのだが、ここに写し出された綱子の突っ掛けていた下駄というのが、片方に不倫相手の男物の黒い鼻緒の下駄、そのまた片方に綱子自身の女物の赤い鼻緒の下駄を履いているのである。

巻子との小競り合いで、綱子は小刻みにステップを踏むのだが、それはまるで、綱子が地団駄を踏むように忙しなく、そんな綱子自身の心の乱れを、この下駄のシーンで向田邦子は描いたのである。

こんな短いシーンの中でさえ、人間のどうしようもないみっともなさ、取り繕えない決まりの悪さを的確に描いた、向田邦子の恐ろしさたるや、男には到底思いつかない名シーンであった。

2022年8月4日・書き下ろし。






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