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向田邦子の『冬の運動会』と桃井かおり

 部屋の掃除を終えて汗だくになり、昨日の残り湯に景気良く飛び込んで軽く汗を流した後 、エアコンを効かせた冷えた部屋にゴロンと寝転んだ。
 その時だった。
 本棚にあった向田邦子のシナリオ集『冬の運動会』が目に留まった。
 このシナリオ集は、向田邦子が飛行機事故で急逝した翌年の一九八二年に大和書房が出版した本で、第一巻『阿修羅のごとく』から始まり、『幸福』 『冬の運動会』『家族熱』『蛇蝎のごとく』と続く五冊の中の一冊だった。 
 向田邦子は、その生涯でエッセイは数多く残しているが、小説となるとその数は極端に少ない。それは彼女が五十一歳という若さで飛行機事故により、台湾上空に散ったからである。
 その後、向田邦子の小説もどきが何冊も出版されたが、それは彼女の手による作品とは一線を画すものである。
 脚本として残されていた作品を、別の人の手により小説化したものであるから、「産みの親」は間違いなく向田邦子だが、彼女の作品かと問われたらそれとは違い、強いて言うならば「育ての親」の作品だと私は思っている。
 それとは対照的に、シナリオ集は紛れもなく向田邦子の作品であり、彼女自身が紡ぎ出した魅力に溢れた言葉であり、行間であり、情感であり、映像のない「映像作品」である。
 私は彼女が現役で活躍していた時代には間に合わなかった世代だが、彼女を作家という肩書きで捉えたことは余りない。やはり、彼女は何よりも優れたテレビドラマの脚本家だったと思うのである。
 それを凌ぐには、余りにも作家としての活動期間が短か過ぎた。だから、私は向田邦子がその生涯の大半を費やして生み出した、テレビドラマの作品を何よりも評価したいと思うのである。
 私が観た彼女のテレビドラマの中で『寺内貫太郎一家』と『あ・うん』は同じホームドラマではあるが、余りにも真逆を行く対照的な作品なので別格として、それを除いて最も好きな作品と言っても差し支えがないのが『冬の運動会』である。
 向田ドラマに出演した俳優の皆が口を揃えて言うのは、登場人物のキャラクターと、その見事に振り当てられたキャストから発せられた、その台詞の素晴らしさである。
 どんなに役者が台本を待たされても、それを手にした時、
「こんな台詞を生み出すのなら、筆が遅くて待たされても致し方ない」
と口々に言わしめた、そんな台詞が鏤められたドラマであり、『冬の運動会』は向田ドラマの中でも良い意味でいささか「異質」な名作だった。
 以前、NHKで放送された『アナザー・ストーリー』で向田邦子が特集された時、彼女の生涯最期のオリジナル脚本によるテレビドラマ『隣の女』を取り上げた。その際、最後の「ヒロイン」として念願だった向田ドラマに「主演女優」として迎えられた桃井かおりが当時を振り返り、向田邦子との思い出を語った。
 桃井かおりが、向田邦子と話す取っ掛かりとして最初に彼女に質問したのは、
「万引きしたことのない子供と、いたずら電話したことない女なんていませんよね」
という、何とも桃井かおりらしい「常識的」で、世間的にはそれは「不謹慎」なものだった。
 それを観た時、私は桃井かおりがどうしてこんな質問を向田邦子にしたのか、正直理解出来なかった。
 質問された向田邦子自身も、桃井かおりの突拍子もない質問に答えに窮した様子で、
「そうかもねぇ」
と答えたという。
 私自身が桃井かおりの「万引きしたことない子供」という質問に異議を唱える立場にいた。つまり、私は万引きなど一度もしたことがなかったから、尚更それは奇妙な質問であると感じたのだと思う。
 そのことが放送当時からずっと心の中で引っ掛かったまま、今日まで過ごして来たのだが、なぜ、桃井かおりが開口一番、向田邦子に「万引き」の質問をしたのか、その答えを私はこのシナリオ集『冬の運動会』の冒頭に見つけた。
 根津甚八演じる主人公・北沢菊男が学生時代、友達の言葉を思い出し『原色世界の美術全集』一冊を本屋でくすねていたのである。随分前に観た切りだったから、私はそのシーンをすっかり忘れていたのである。
 桃井かおりは、私の知る範囲の話だが一九七七年十一月に放送された山田太一脚本のNHKドラマ、人間模様『男たちの旅路』第二話『墓場の島』でゲスト出演した根津甚八と共演を果たしていた。
 根津甚八は、その年の一月から放送された向田邦子脚本によるTBSドラマ、木下惠介・人間の歌シリーズ24『冬の運動会』に出演していた。
 確か、根津甚八の向田ドラマへの出演は、この作品が初めてだったと記憶している。
 向田邦子が『冬の運動会』の主人公・北沢菊男役を決める際、当時、劇団『状況劇場』に所属していた根津甚八をと思い、雑誌の対談で彼と対面を果たしていた。
 根津甚八自身が、後にこの時の様子を事実上のオーディションだったというような表現をしていたが、根津甚八は向田邦子の眼鏡に叶い『冬の運動会』に出演後、向田邦子に気に入られ桃井かおりが出演した『隣の女』にも出演を果たしていた。
 そんなこともあり、桃井かおりは向田ドラマを当時から観ていたのだと思った。もっと言えば、向田ドラマに出演したかったのだと思われる。
 しかし、その個性が良くも悪くも邪魔をして、当て書きでもない限り桃井かおりをキャスティングするには難しかったのかもしれない。向田邦子の早過ぎる突然の死を知る由もなかった当時、桃井かおりはギリギリのところで向田邦子自身の脚本によるテレビドラマ『隣の女』に出演を果たせたと言える。
 そこで、当時観ていただろう『冬の運動会』の冒頭の「万引き」のシーンを思い出して、向田邦子に、
「万引きしたことありますか?」
と直接的に訊かない代わりに、
「万引きしたことのない子供なんていないですよね」
と、実際に桃井かおり自身が万引きをしたことがあるかどうかは別として、遠回しに同意を求める形で訊いたのではないかと私は思ったのである。
 桃井かおりはきっと、『冬の運動会』を観ていたのだ。そうでなければ、「万引き」という、良識のある大人なら正直に答えるには憚られる言葉を、いくら桃井かおりでも、これから一緒に仕事をする初対面の向田邦子に対して口にする筈はなかろう。
 この時、答えに窮しながらも、
「そうかもねぇ」
と答えた向田邦子に、桃井かおりは本当の意味で心を開けたのでないかと私は思った。
 そういう、どこか落第生のような人間を責め立てて否定するのではなく、かと言ってやったことを肯定する訳ではないが、そこも含めて人間という厄介だが面白い生き物にやさしく寄り添ってくれた脚本家、それが向田邦子だったのだと私は思う。
 向田邦子と桃井かおりは、次回作『虞美人草』で再びタッグを組むことを約束していたが、それは向田邦子の突然の死によって永久に叶うことはなかった。
「向田さんに憧れていた。あの時代に俳優をやってた人間は、向田さんのドラマに出るとどんな俳優もみんな輝くんですよ」
 桃井かおりは目にうっすら涙を浮かべ、そう向田邦子を回想していた。
 桃井かおりは『冬の運動会』を観ていたのだと私は確信したが、人様の大切な思い出に口を挟むのは、もうこの辺にしておこうと思う。
 




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