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役者・三浦春馬くん三回忌

今日は、役者・三浦春馬くんの三回忌。

彼がこの世を去って丸二年になる。

生きている身の上には、自分自身にも世の中にも様々なことが起こり降りかかる。喜びも悲しみも苦しみも様々な感情が、その出来事と共に我が身にやって来る。

そんな感情の中を行ったり来たりする間に、段々とそれ以前に受けた衝撃というものを、緩和していく力が人間には備わっていると誰かが言っていたが、最近になってそうかなと僕も少なからず思ったりしている。

もう二度と新しいものは彼の手から生まれることはないし、彼の口から直接何か僕達にメッセージを発することももう決してないのだが、どういう訳だか僕の中では、彼はいなくなったような感じがないのだから何とも不思議だ。

勿論、いるとも思ってはいないが、その存在というものはどういう訳だか寄り添い続くものになりつつある。

今、同じこの世界で生きている人が一生懸命に努力をして、活躍する姿に力を貰っている自分がいるのは確かだが、それとは別に彼はやはり僕の中に戻って来た、そんな思いがどういう訳だか今はとても強い。

彼とは何の関わりもなかった僕だから、戻って来たという表現が正しいのか分からないが、彼は人々から絶対に忘れ去られることのないよう、様々に準備をして旅立ったように僕は思う。

それは何も残していかなかったこと。そして、その予兆を全く見せなかったこと。更には、人間が持つ知りたいという欲求。彼は僕達がそれを知る術を残すことなく、綺麗さっぱりと旅立ってしまった。

分からないということがあらゆる意味で、どれだけ人の関心を惹きつけるものか、そのことを彼はもしかしたらきっと分かっていたのかもしれないと思う。

今まで文字にするのも憚られると書くことはしなかったが、今日はそれを思い切って書くことにした。

役者としては彼は幸せだった筈だ。

僕は、役者でも何でもないから一人の人としての願望として書くが、やはり太く短く好きなことを好きなだけやり切って、パッと人生を潔く終える。これは一度は誰もがそうあってみたいと、男女問わず思ったことではないだろうか。

そう思えるのは、今、生きているという現実があるから思えることであって、本当に今月一杯の命だと知らされたら、こんなことにならない方が良かったと、そう思うのが人間の常だと思うのだ。

一人の人間としてではなく、役者としての彼の生涯を思うと、僕はそんなに不幸ではなかったと、ある時から思うようになった。

むしろ、こういう最期になってしまったことは、遺された者には余りに酷なことではあるが、或る意味、三十歳で時を止めた彼はもしかしたら、そういう夭折願望を持っていたのかもしれない。

それを叶えるタイミングが、あの2020年にやって来てしまった。そんな風に思えてならないのだ。

先日も書いたが、僕は彼の目が全てを物語っているように思えてならない。狂気と正気を宿したあの目である。

あの日、彼は狂気が勝ってしまったのか。僕にはそう思えてならないし、彼が全ての準備をして旅立ったというのならば、今起こっている彼を取り巻く様々な全ての謎が、解けるような気がするのだ。

一人の人間として、平凡でも慎ましく長生きしてこその幸せも勿論あるが、パッと夜空に打ち上げられた花火のように、鮮烈に輝きを放って散る。それもまた人の人生なのだ。

二年間、彼と毎日向き合い続け、僕が辿り着いた答えである。

辛い時の方がたくさんあったが、何も答えはしない彼としっかり向き合い続けて来て、僕は良かったと今は心から思っている。

これで、彼の御霊にしっかりと僕は寄り添うことが出来たかなと、そんな思いがしている。

そして春馬くんと僕達は、これからも旅を続けていく。一緒に。

2022年7月18日付・インスタグラムより転載。

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