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光陰矢の如し

 光陰矢の如しとはよく言ったものである。

 コロナ禍から三年が経った今、人々は何もなかったかのように、ちょっと盛り場を歩いていれば、オープンテラスでグラスを片手に、男も女も会社の愚痴や家庭の愚痴を、それは楽しそうに話している。

 あの新型コロナとは一体何だったのか。

 まだ、完全に収束したわけではないが、弱毒化しているのかいないのか、私にはよく分からないが、そのせいで二〇一九年の時のような日本の風景に戻りつつある今の現状が、私は未だに受け止め切れないでいる。

 新型コロナの流行と七十八年前の敗戦とでは全く意味合いも違うが、あの当時、違和感や矛盾を覚えていた人たちの気持ちというものは、もしかしたらこういうものだったのかもしれないと、私は思うようになった。

 かくいう私も、三年前には普通にあった日常に、少しずつ戻りつつあることは否定しないが、その間、時代に適応出来ずに倒れて行った人々がいることを思うと、何ともこのアフターコロナの少し緩んだ、自由な空気というものを感じることなく、そしてまたその世の中にうまく適応出来ずに、誤った方向へ行ってしまった人々のことを思うと、何とも言えない気持ちになるのである。

 一歩間違えていたら、何が引き金になって自分がこの世からいなくなっていたかも分からない、そんな状況だった。

 この三年間は一体何だったんだろうと改めて考えると、全くもって分からない。あえて名前を出すことも私はもうしたくはないのだが、私が出さなくても名前を出して、色々と言う人がいることが分かっているからである。

 そんな中で一度だけ、名前を出したいと思う。

 最近、テレビで見ないな。一体どうしているんだろう。私は今、三浦春馬くんをそんなふうに思っている。

 三年前は、もうテレビに出ることは二度とないのだなと、そう思っていたけれど、今は最近、テレビに出ていないけど、お茶のコマーシャルも降板したのかな、そんな感覚なのである。

 これはもう、僕の心の中に彼が戻って来ている証拠である。そしてまた、色々と騒ぎたがる世間の人たちに私は背を向け続ける。

 そしてもう、必要以上に彼の名前を出すことも、彼の存在をわざわざ表に出したりしたいとも思わない。

 僕はもう彼との約束を果たした。一年間、文章を書き続けたのである。それをこれからも僕は出来る限り続けていこうと思っている。

 それは、彼を失ったことを無駄にしたくないからである。それが今は亡き三浦春馬くんと僕が勝手に交わした約束なのであるから。

 もう僕の心にずっといればそれでいい。

 これからもずっと一緒だから、僕は安心して忘れることが出来る。だって心の奥にいつも春馬くんがいるんだからわざわざ思い出す必要もない。それでいいんだ。

 僕は所縁の場所にも行かないし、築地にも行かない。行きたくもない。だって同じ時代を生きていたんだから。それがすべて。存在を感じるためにそんなところへ行くのなんて僕には必要ない。僕の心の中にいるから。

 それが僕のすべて。

 春馬くん、君は最高に美しい、それは美しい男であった。日本にはイケメンというそれはそれは奇妙な日本語があるけれど、そんな安っぽい言葉ではない。

 君は麗しい、そして、爽やかな風が吹いたような、そんな男だった。だから、僕は君が大好きだった。

 僕は三年経って汚くなるばかり。生きているってそういうことだから。やっぱり君には年を取るのは似合わなかった。

 今ならそう思うよ。

 春馬くん、君の代わりに僕が汚くなっていくから。それでいいよね?

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