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『意味』のないとも、される場所から

居場所と評価は対極のようなものだけど、現状では予算を獲得するために最低限の定量調査は必要なのもわからなくはないところ。

でも、そもそもユースワークは定量的に測れるのか?いや、せめて定性的に説明するくらいしかできないでしょう。

定量的に評価するためには、根拠のない(ような)説明をもっともらしくするしかないし、だからこそ、それっぽいストーリーを作れる人や組織だけが深化ではなく拡大していくのかな。SROIなんてはさにそのもの、、、

その流れの中で、大部分の人に認められる事業しかしなくなり、大部分の人への影響力を至上と考えるトップが出てくるのかなーとか考え、モヤモヤ。

とある方のご意見

そうだよね、わかる。とってもわかる。ただ、でも、でもって言っていいのか、でもではなく、そうだけれどもだな、(うん)そうだけれども、それを「わからなくもない」とはしたくないなあ、と、ずっと活動をしています。

評価をいれることで、予算を獲得できる可能性はあがるのかもしれません。でも、予算を獲得するのは誰のためでしょうか。活動者のためです。いや、もちろん反論もあるでしょう。そこに集っている子どもたちにとって、そこが予算をしっかり確保して続けることが、子どものためにもなる、と。

つまり、子どもたちの変化を自分たちの活動の成果のように伝えることはできます。でも、本来的にはそれは子どもたちのものです。それを子どもたちが自分で感じ、自分の言葉として発するのであればいいのですが、活動の成果としてだすのは、ぼくは躊躇します。それは、もし今は子供も親も成果としていうことに同意していていも、10年後その団体との関係が悪くなっても、それが成果として残っていたら嫌だなというのもあるからです。一例ですが。

そうです。だからこそ、どんなふうに予算をとってくるかが、とても大事になります。子どものためだから、という理由がつけば正当化されてしまう予算確保。だからこそ、どうやって確保するのかが大事になってきます。そこでそれぞれいろいろ考えて発信したり、寄付のお願いをしています。

でも、活動者が踏ん張るとします。すると、どうなるでしょうか。おそらく資金が集まりません。だって、そこの活動の意味が伝わらないからです。それは、いまの社会でお金を握っている人たちに届かないということです。

そこで、言われるのはこういうことです。「活動をきちんと伝えれば応援してくれる人はあつまるよ」「発信の仕方をかえてみよう」と。でもね、どうして活動者が社会への発し方を社会にわかってもらうようにしないといけないのでしょうか。もちろん、発信の仕方を調整する必要はあるのかもしれないです。ただ、同時に、それを受ける社会の側にも変化を求めてもいいのではないでしょうか。大事なのは同時にです。

『居場所づくり』と呼ばれる活動は、本来的には今の社会で意味がない、そしてそれによってお金が集まらないものだと思っています。だって、いまの社会で意味があると認知されて、お金が集まれば誰かがすでにしています。でも、この活動は、社会的に意味がないとされるのは、そういった今の社会でお金をにぎったり、社会で大部分を占めている人たちにとってなんですね。そうじゃない人たちにとっては、そうじゃないこともあるんです。(全員ではありませんが)

でも、なんで意味がないとされるのでしょうか。ただ子どもがすごしているだけの場所、何も生み出していないように見える、将来のために今を使っていないなど、今の社会で意味がないと思えることをするのが、大事だと思うんです。大事というと少し強いですね、そういうのがあってもいいと思うんです。でも、子どもにとって、大人が無駄だと思う時間はとても大事なものです。そんな時間の意味をどう伝えていくのか。

自己責任にしていいのかなと思うのです。活動者がうまく情報発信ができていない、寄付集めができていない、と。活動者は、お金の必要性をことあるごに訴えています。みんな本当はそんなこと苦手なのにお金を集めようとしています。そしてそこで疲弊して、活動をやめていく人がいます。すると、気づくんです、ああいい活動だったのに残念だなって。

ぼくは行政の支援という立場ではなく、こういった活動は市民みんなで支えていくものだと思います。自分たちの地域のこどもたちは、自分たちで支えると。自分の時間は差し出せないけど、生活も余裕はないけれど、それでもいくらかなら活動に支援できる。そうやって、活動はできなくてもお金で支援することは、活動と同じくらい大事なことです。その両輪で活動はまわっていくのですから。

ぼくらの活動です。

昨年度は、古民家を183日あけて、子どもが1814人と、大人が227人(ともにのべ)きました。コロナ禍以降、やっと子どもたちが戻ってきました。人数は規模感をしってもらいたくて載せました、彼ら一人一人にとって、ここがどういう場所になったのか、それは彼らのものですので、ボクにはわかりません。

ただ、ここでいろんな人たちと時間をともにしたこと、そこで喧嘩したり、遊んだり、ご飯をたべたり、ゲームしたり本を読んだり、ぼーっとしたり。ここがなければ、できなかった時間かどうかはわかりません。ただ、ここがあることで重ねられた時間ではあります。

それがどういう意味をもつのかは、わかりません。ただ、さまざまな本や、社会的養護に関わっている人に話をきくと、誰かとともにすごす時間は大事です。だからこそ、社会でそれができる可能性のある場をつくることが必要だとおっしゃいます。(すみません、意味をもたせてしまったかもしれないです。)

放課後は、いま子どもたちにとってどうなっているのか。学童に通っている子は、そこで子どもどおしの時間をすごします。でも、学童に通わない子は、地域で遊ぶ場所、子供をほおっておいてくれる場所、すきにできる場がやはり減っていると思います。一人ですごすツールもたくさんあります。だから、集える場所は大事です。

ぼくは、放課後に子どもが地域ですごせる場はがいろいろあればいいと思っています。だって、ぼくらの活動場所に居心地の悪さを感じる子だっているのだから。いろんな場所があるほうがいいです。その1つにボクらの活動がなっていれば嬉しいです。

古民家をあけるには運営費(人件費以外)が80万円程度必要です。それを安定していただける継続寄付で賄うことがことしの目標になりました。いまは35万円程度が継続寄付です。もちろん都度寄付もありがたいですが、活動を安定して続けるには継続寄付が重要です。

安定した寄付があることで、ぼくらが安心して活動ができます。そこにいる大人が安心できることは、集う子どもたちとの時間に余裕ができ、優しくなれます。

もし、ご寄付をいただける方、ぜひ継続にて寄付をお願いいたします。 ただ、寄付はなかなか大変です。このご時世です。でも、ぼくらの活動をいいなと思ってくださったらぜひ、毎月500円からの寄付で支えていただけるとうれしいです。


ぼくが食べたいものを食べて、読みたいものを読むために使います!