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会社はスイミー

先日、学習する組織マフィアを称する友人らと「なぜ(個人でなく)会社である必要があるのか」について話し込んだ。とても有意義な時間だったので、忘れないように残しておく。

因みに、学習する組織マフィアというのは、名著「学習する組織」に学びながら、経営や戦略、組織論等を語り合う、僕が所属するコルクラボ内の秘密結社(ただのグループ)を言う。

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さて、話を戻そう。

そもそも個人で提供できる価値があって、それを提供できる機会もあり、それに対して十分な対価を得られており、自分で責任も取れて、そこに満足があれば、会社である必要はない。寧ろ、会社に所属する事で中抜きされてしまうのはもったいない。

例えばこんな話があるとしよう。

小売り業界に非常に優秀なセールスのAさんがいる。Aさんは顧客を丁寧に訪問し、フォローし、確実に数字をあげる。顧客からも「Aさんは説明も丁寧だし、次もまたAさんでお願いね。頼んだらすぐ来てくれるし、返品やクレームにもきちんと対応してくれる。私にあった便利な商品も提案してくれて嬉しい。おかげでAさんの会社の会員にもなったわ。」とよく言われる。Aさんはどんどん有名になり、それに満足しつつも、更なる顧客満足の向上や市場を開拓していく。

これが全て個人できるのであれば、Aさんは独立した方が良いだろう。だが、Aさんは法人だ。
Aさんの価値は全て法人であるからこそ個人でやるよりも増幅して得られるもので、これこそ会社で在る事の価値だ。
因みに、Aさんの名はAmazonさんと言う。いうまでもなく様々なスキルが集合してAmazonというプラットフォームができているし、Amazonが提供している価値は個人に細分化できない。

個人で考えた場合、提供できる価値とはその人がもっている固有のスキルそのもの。これを会社に置き換えてみると、会社にはオリジナルのパッケージ化された価値がなければならないのだ。この、「パッケージ化された」というのがミソだ。つまり、その会社が、所属する個人が個別で提供できる価値しか提供できないのであれば、会社である必要はない。オリジナルでなければ、競合は不可避だ。

スターバックスなどは非常にわかりやすい。美味しいコーヒーそのものはスターバックスの価値ではなく、スターバックスエクスペリエンスというパッケージ化された価値を構成する要素の一つだ。パッケージ化された価値は不可分なのだ。スタバと全く同じコーヒーがどこかで売られても、顧客はスターバックスエクスペリエンスを思い出すだけで、それがその体験を代替するものにはならないだろう。

他の点についても、同じことが言える。

会社である以上、「会社ののれんで受注できる仕事>個人ののれんで受注できる仕事」の状態でなければならない。個人ののれん(スキル)をベースにした口コミなどで受注し、その個人にのみ還元される仕事しかなく、個人で得られる収入以上のものが得られないのであれば、その人が会社にいる意味はない。また、そもそもその様な機会しか提供できないのであれば、その会社の存在意義もない。

責任の取り方だって同じだ。会社で在っても個人に全ての責任が収れんされてしまう様な会社は不要だ。

そして何より満足度、自分の成功を自分一人の成功としてしか喜べないのであれば、会社に所属する意味はあまりない。従業員が共感できるビジョンを会社は示さなければならない。

全てにおいて、社員の価値の総和よりも会社の価値の方が高くあり、それが不可分であることこそが会社である事の意義なのだ。

且つ、これらの要素が働いていることは会社とその所属する個人にとっての側だけの話ではなく、発注側にもメリットなのだ。個別でどこにオーダーすればわからない/煩雑になる仕事をまるっと一括オーダーできる。そこに任せて安心の信用がある。なので、発注者は個別で頼む以上の対価を払うのだ。それにより、会社は利益を産む。個人、会社、発注者、三方良しである。(本意と少し違うけど)

そう考えると、会社はスイミーみたいだ。スイミーが魚の形しておらず、ただの群れだったら、スイミーの物語は、成立しない。

常に会社が会社である事の価値を発揮できているか、所属する個人としても忘れない様にしたいものです。

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