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大砲作る江戸の先端工場 韮山反射炉

 すすけたような茶色をしたレンガ造りの煙突が、のどかな里山風景に突如現れる。今から約150年前には、この4つの煙突からもうもうと黒い煙が上がっていたことだろう。韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)は江戸時代末期の製鉄工場であり、当時最先端の大砲の製造拠点だ。

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(高さ16メートルほどの煙突が並ぶ)

たたら製法に限界

 ここを訪ねよう思ったのは昨年末、タレントが無人島に反射炉を作るというあるテレビ番組の再放送をたまたま見て知ったためだ。JR三島駅から車で国道136号線を南へ20分ほど走った付近にある。なぜこうした郊外のあまり特徴のないように見える場所に、江戸の先端拠点があったのか興味がわいた。

 反射炉というのは、石炭などを燃料として発生させた熱や炎を、炉内で反射させて一点に集中させて高温を作る炉のことを言う。江戸時代末期にオランダの技術書の翻訳によって、日本に取り入れられた。この韮山反射炉はセ氏約1600度程度まで温度を上げることができ、その高温で溶かした鉄を鋳型に流し込み、江戸幕府向けの大砲を製造していた。

 日本では古代からたたら製法という木炭を使った製鉄技法があり、日本刀などが作られてきた。ただこの技法では1500度以上まで上がらず、また加熱にムラがあり製品が脆くなりやすいという製法上の限界があった。また大砲のような、鉄の使用量が多いものを作ることができないという問題もあった。そのため、大砲を作るにあたって技術の進んだ欧州から知見を取り入れる必要があった。

 そもそも、なぜ大砲が必要だったのか。それは江戸幕府の国防上の危機感があった。1840年のアヘン戦争に清が負けたことで香港がイギリス直轄となり、日本も植民地化される恐れが高まっていた。佐賀藩や長州藩などの先進的な藩は、欧州勢との戦争に備えて海防が日本にとっての生命線になると考えた。

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(地元のガイドの方が詳しく教えてくれる)

 ガイダンスセンターに入ると、江戸の当時の代官だった江川英龍が紹介されている。英龍も国防に危機感を抱いた先進的な官僚で、幕府に海防政策を進言する立場だったそうだ。計画の当初は伊豆半島の先端部の下田に計画されていたそうだが、そこでは建設途中で海外からの船に見つかってしまうという懸念があったため、この内陸に移転されたという背景があったと知った。

石炭や鉄を運ぶ適地

 ここを選んだのには地理的な条件もあった。反射炉に使う石炭や鉄の原料は重いため、水運の便が良くなくてはならない。この場所は、伊豆半島の最高峰、天城山を源流とし駿河湾に流れ込む一級河川の狩野川沿いが1㎞ほどの場所にある。山陰の石見や岩手の南部からの銑鉄や、九州・筑後などからの石炭を運ぶのにも適した場所だったようだ。ガイドの人によると、韮山代官所に近く幕府の人と連絡を取り合うのにも至便だったという理由もあったそうだ。

 反射炉設計にはいくつもの課題があった。まず、石炭を高温に熱するには、炉内に空気を送り込み続けられるかが重要となる。そこで炉から煙突に向かう部分を狭く絞ることにより、流速を早めて圧力が低い部分を作り出す設計にしたそうだ。「ベンチュリ効果」と呼ばれる流体力学に基づく手法を、失敗を重ねながらも取り入れられたことが成功の一因となった。また、1600度にも耐えられるレンガ造りも当時の大きな課題だったそうだ。天城山の梨本という場所の粘土質の土が適していることがわかり、耐火レンガも作ることができた。それまでは、高温に耐えられず炉が壊れ、事故も少なくなかったようだ。

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(炉内構造には当時最先端の工学的な知見が取り入れられた<ガイダンスセンターのパンフレットより>)

 ここと同じく2015年に世界文化遺産に登録された萩の反射炉は炉は完成したものの、実用的な大砲を作るまでには至らなかったそうだ。現存する反射炉はここが唯一という点で、日本の歴史上極めて重要なのだという。韮山反射炉は、1857年に完成して以来、10年弱稼働した。ここで作られた大砲は今のお台場に設置され、開国に揺れる時代の国防の一旦を担った。

 私の地元の北九州には、明治以降の鉄による国づくりを支えた官営八幡製鉄所が置かれた。八幡製鉄所は1901年に創業を開始し、歴史の授業では「日本の鉄鋼生産の歴史の始まり」というような教え方がされることが多いように思う。ただ、八幡製鐵所が創業される50年ほど前に、伊豆で当時最先端の製鉄技術の試行錯誤があったことを覚えておきたいと思った。

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