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言語化できなかったこと#2

2020年6月16日

自分には「思想」が足りないなーと思ったわけですが、今回はなぜ、そのようなことになったのか、備忘録的に考えてみます。

高校生までは、与えられた問題に対して、定められた答えを出していたように思います。まあ、一般的な受験生としてのふるまいです。

大学生時代は3回生までは理系学生としての基礎を身につけるために理系科目のインプットや答えのある実験(追試的なもの)をしていたように思います。研究室に配属された4回生から大学院生時代は、遺伝子工学を専門として、世にない研究(答えのないことに対する実証的な取り組み)をしていたように思います。それは、ある現象のメカニズムの解明です。多くの理系学問は、そのような真理の探究を目指すために、自分の思想が入り込む余地なんて、なかったように思います。まあ、自分の見識が狭かっただけのようにも思いますが笑

社会人になってからは経営コンサルタントとして、企業改善のメカニズムを解明しようとし、今になって思うと、理系的なアプローチによる真理の探究をしていたのかなと思います。

このように思い返すと、真理の探究、メカニズムの解明が是であり、自分の思想や理系的根拠のないものは、極力排除されるものとして考えられていた(求められていた)ように思います。自分が特別ということでもなく、多くの真面目な理系学生ほど、そんな気がします。
今でこそ、リベルアーツが重要という声もありますが当時は皆無だったし、今の大学でもそのような取り組みをやっているところは少ないと思います。
当然ながらサイエンス的な積み上げはとても大切なことだと思いますが、アート的な直感から何かを定め、そこからサイエンス的なアプローチをするといったことも今後は求められると思います。
自分の生い立ちを振り返ることで、脱構造主義的なアプローチができるのかなと思いますが、改めて、理系学生ほど学生時代にリベルアーツ的な学びが必要なんだろうと思います。


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