見出し画像

人のふり見て我がふり直せ

家の掃除をしていたら、ふと、先日の息子のサッカーの試合のことを思い出した。

おそらく顧問の教師であろう若い男性が、周りより一段高い場所で、イスに座って試合を見ていた。まさに高みの見物である。

彼は中央のコートサイドの近くにいるので、試合を見ていると、自然と視界に入ってきてしまう。彼がそこにいるせいで、見えない場所ができてしまうので、早く移動してほしかった。

少しすると、ユニフォーム姿の中学生たちが彼に挨拶をしてから、私の前を横切るという場面が続くようになった。

中学生たちは私の前を通るとき「失礼します」と言いながら、姿勢を低くして小走りしていく。いい子たちだなと思った。

一方で挨拶をされた顧問の男性は、試合を見ながら、目を少し彼らに向けるだけ。少し距離があったので正確にはわからないが、声を発しているようには見えなかった。

不思議だったのは、少し怒っている様子だったことだ。

中学生たちはかけ声をかけながら自分たちだけで整然とアップをはじめた。
アップを終えると顧問のもとに集合してきた。

そこに集合されると試合が見づらくなるので、早く解散してくれないかなと思っていたが、そこから長い説教が始まるのだった。

どうやら、アップをはじめるのが遅かったらしく、それでイライラがたまっていたらしい。時おり、怒鳴り声も交えながら説教は続いていく。

息子の試合を楽しみたい私にとって迷惑でしかなかったが、周囲のことなどお構いなしだ。

それにしても話が長い。「学校のテストの時、開始3分前に席に付く奴がどこにいる!」など、もはやサッカーとは関係のない話に展開していた。

「◯時から試合だから◯時までにアップをしてほしかった。次から注意してほしい。」で済む話ではないのだろうか?

子供の理解力を信用していないから、大声で長時間説教するという発想になってしまうのだろうか?

百歩譲って、時間にルーズだと社会に出た時困るから厳しく指導しているとして、人から挨拶されているのに無視する、周囲の迷惑を考えないで怒鳴りちらすのは、社会人と言えるのだろうか?

私には、人の前を横切る時、気遣いができる子供たちのほうがよほど大人に見えたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?