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教師の眼差し#1|教師は「話す」よりも「聞く」
1 教師は話しすぎる
一年間の育休から学校現場に戻って一ヶ月が過ぎた。改めて感じるのは、「教師は話しすぎる」ということ。生徒の話を聞くことよりも、教師自身が話すことの方が、圧倒的に多い。そして、それが当たり前のことになっているように見える。
中学校の現場で象徴的なのは、部活動の「ミーティング」のシーンだ。ミーティングと言うからには、「話し合い」がなされるのかと思いきや、そんなことは(僕の見る限り)ほとんどない。大概は、顧問の教師が一方的に評価や指示を述べる。
そこでは、教師から生徒に対して、ミーティングの問い(テーマ)が発せられることはないし、ましてや生徒同士が語り合うことなどほとんどない。「これはミーティングなのか?」と思わずツッコミを入れたくなる。
「話しすぎる教師」の姿は、もちろん課外活動の部活動に限ったことではない。学級活動でも教師が話す時間の方が、生徒同士が語り合う時間よりも長いことがしばしばだ。授業でも、日本ではいまだに、座席は黒板に向かって整然と並べられている。その先には教師が「君臨」していて、教師の話を行儀よく聞くようにデザインされている。
2 なぜ話すことより、聞くことが重要なのか
いつからかは定かではないけど、僕は、教師は話すことよりも生徒の話を聞くことを大事にしたい、と考えるようになった。ここで改めて、教師にとって「聞く」という行為の意味を深く考えてみたいと思う。
「生徒の話を聞く」とはどういう行為だろうか。中学校では、生徒の側から進んで教師に話しかけてくることは多くないし、そういう生徒は限定される。だから、「生徒に話しかけられた時に聞く」というスタンスでは、実際には生徒の話を聞く行為はあまり成立しない。
そこで「生徒の話を聞く」ためには、「生徒に訊くこと」つまり問いを投げかける行為が必要となる。「土日の休みはゆっくりできた?」「最近、どんなことに意欲を持ってる?」「君は、〇〇という考えについて、どう思う?」こうした問いを発するところに、「生徒の話を聞く」という行為が生まれると思う。
さて、なぜこのことは、重要なのか。
僕は、問いを生徒に投げかけることで、生徒の思考を活性化し、深めることができる、という次元の話ではないと思っている。
生徒の話を聞く、という行為は子どもの存在をどう捉えるか、という教育の根源的な問題に繋がっている。
人が相手の話に耳を傾けている時、その人は相手に関心と敬意を持っている。あるいは相手から学ぼうという謙虚さがあるかも知れない。そこには相手を操作しようとしたり、見下したりする態度はない。
だから教師が生徒の話を聞くということは、生徒を一人の人間として捉え、人格的な関係を結ぶ行為と言える。その時、教師は「評価者」という立場を降りている。一人の人間として生徒と関わり、教師対生徒という機能的な関係性とは違うあり方で触れ合っている。
さて、そのような教師の聞く行為(態度)に触れた生徒は、何を感じるだろう?
生徒は、自分の人格・個性を受け入れてもらえる安心感を覚えるかもしれない。それは自己肯定感に繋がっていくだろう。
安心し、自己を肯定できる生徒たちは、どう行動するだろう?エネルギーと勇気に満ちて、自分らしさを発揮していくのではないだろうか。生徒が自分らしく生きることを支援することは、教育の重要な目的に他ならない。
変化が激しく複雑な社会においては、既存の考え方や仕組みに生徒を適応させることよりも、むしろ生徒が新しい考え・仕組みを創造できるようにする支援が重要だろう。だとすれば、生徒が自らの遺伝的資質に沿って、大人の価値観に縛られることなく、自分らしく生きることは、益々意味があると思う。
このように考えれば、教師の聞く行為によって誘発される生徒の内的経験(安心や自己肯定)は、非常に重要だと思われる。
さらに別の角度から、「聞く」の意義を付け加えたい。それは、子どもの権利条約に関わる視点だ。子どもの権利条約には4つの原則がある。そのうちの一つは「子どもが意見を述べる権利を保障する」というものだ。
冷静に考えれば当たり前だが、子どもが意見を述べる権利は、大人が聞く態度を持つことによってはじめて保障される。話を聞こうとしない大人に、子どもが意見を述べるとは思えない。だから、教師が聞く行為を重視することは、子どもが意見を述べる権利を保障することに直結している。
ここまでの議論を反転させて考えれば、次のようになる。
生徒の話を聞かず、話してばかりいる教師は、
(1)生徒に安心感を与えられず、エンパワメントすることもできない。
(2)生徒が自分らしく創造的に生きることを支援できない。
(3)生徒が意見を述べる権利を保障できない。
3 話すかわりに、問いを投げかける
さて、僕たち教師は、「聞く」ことを大切にしようとする時、何から始めたらいいのだろう?
単純な提案だけど、いつもなら自分が話す場面で、話すかわりに、生徒に問いを投げかけてみるのはどうだろう。
新年度から副顧問となったソフトテニス部の大会引率で、試合前に生徒とミーティングする場面があった。普段なら教師から叱咤激励の言葉を伝える場面である。しかし、僕は生徒に次のように問いかけた。
「今日の試合で、あなたが避けたいことは何ですか?このテーマで話そう。みんなの考えを教えて欲しい。」円陣をなした生徒たちは、自分の考えを次々に話してくれた。
この時、大事なのは評価しようとしないことだと思う。生徒の声を、ただただ肯定的に受け止めること。もし、生徒が話すことに評価を下してしまうなら、それは真の意味で聞く行為ではないように思う。生徒はもう話そうとは思わないし、エンパワーされることもない。僕は、ただ「なるほどね!」とあいづちを打ちながら聞いた。
試合の後も、聞くことにこだわってみた。教師の感想を伝える代わりに。「負けてしまったけど、君は今、何を感じている?」「もし、魔法が使えるなら、どんな能力が欲しい?」そうやって問いかけて、じっくり話を聞いた。
それで僕が感じたのは、「生徒の思考が深まった」ということよりも、生徒との関係が深まったということだった。翌日からは、以前よりも心を開いてふれあうことができるようになった。それは、生徒が「この人の前では、自分らしくいていいのだ」と感じたからなのかもしれない。
以上、教師が生徒の話を聞くことの意味を考えてみた。生徒の話を教師が聞くことは、生徒が自分らしく創造的に生きることの支援になる。
僕は、聞くという行為を、教師の存在意義を具現化するものとして考え、これからも大切にしていきたいと思う。
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