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知財業界での教育(弁理士の日記念ブログ企画2024)
【要約】
この記事は、「ドクガク」さんの「弁理士の日記念ブログ企画」のために執筆されたものです。筆者は、自分の知識が社会に役立つならば、それを惜しみなく共有したいという思いで記事を書きました。「知財業界」とは何かを考察し、「業界」という概念に対して疑問を投げかけます。知財業界に限定せず、広い視野で知識や経験を共有することが重要だと説いています。教育とは知識を与えて個人の能力を伸ばすことであり、その過程で自らも成長するものです。筆者はセミナー講師としての経験を通じて、教えることが自身の知識を増やすことにつながると述べています。また、スタートアップでの経験から、唯一の正解を求めず、状況に応じた柔軟な対応の重要性を学んだと振り返ります。教育とは、自分が教えることで自身を育てるものであり、知財業界の教育も同様に、相互に教え合うことで価値を最大化することができると結論づけています。最後に、読者に対して「次は教える立場になってほしい」と呼びかけ、知財人財としての価値提供の重要性を強調しています。
はじめに
この記事は、「ドクガク」さんが弁理士の日に合わせて企画されている「弁理士の日記念ブログ企画」のために執筆したものである。
まだまだ人に教える程の事を成し遂げていないと思う一方で、自分の知見が世のためになるならば惜しみなく出していきたい。
そもそも、このブログを始めるときに思ったことでもある。
「知財業界での教育」というテーマは今の自分にはまだ重いものであるが、「出せば何かが変わるかもしれない」という期待を持って筆を取ることにした。
「知財業界」とは何か?
「知財業界」とは、いったい何なのだろうか。
「知財業界ではない業界」とはいったい何なのだろうか。
「知財業界」の範囲を明確にすることによって表現される「発明」は社会にどんな格別の効果を奏するのだろうか。
僕自身、「知財業界」の人間(知財人財)であると今でも自覚しているが、「人事」・「広報」・「法務」といった非知財領域とされる仕事に携わってみると、「業界」という言葉が縁遠く感じる。
僕は、明らかにその「業界」の人間ではないが、責任をもってその「仕事」をしている。
そもそも「業界」という言葉には意味なんてないのではないだろうか。
「知財業界」に伝わる言葉に置き換えると、「業界」という言葉は、クレームの「カテゴリ」に過ぎないのではないか。
1つの発明を1つのカテゴリ(例えば、「装置クレーム」)だけで終わらせることは必ずしも良い手とは言えない。
発明や事業を見ながら、ケースバイケースで複数のカテゴリを組み合わることが、知財人財としての正しい実務であろう。
これを「知財業界」という概念に置き換えても同じではないだろうか。
「知財業界」という1つのカテゴリで自らの価値を表現するのではなく、自ら経験したことのない新規性のあるカテゴリを選択肢に持った上で、ケースバイケースでカテゴリを選択する。
「教育」という重いテーマを語る上で、「知財業界」という限定は必須の構成要件ではないと思う。
「教育」とはそもそも何であるか
知識を与え、個人の能力を伸ばすこと。現代では、一定期間、計画的、組織的に行なう学校教育をさす場合が多い。
「教育」を紐解くと、次の要件があった。
知識を与えることによって、個人の能力を伸ばすこと。
計画的且つ組織的に行うこと。
このブログがある主の「教育コンテンツ」であるとすれば、能力を伸ばすべき個人はこのブログの読者(≒知財人財)ということになる。
最近、セミナーの講師のオファーを受けることも増えてきた。
セミナーの講師は「学びの宝庫」である。
セミナーのコンテンツは、当然、受講者に知識を与えるために作る。
しかし、その過程で最も知識が与えられるのは、他でもない講師である僕自身だ。
人に知識を与えようとすればするほど、自らの知識が増えていく。
「人に知識を与えることにより、自らの知識を増やす」という循環サイクルは、極めて計画的である。
私の知財教育の変遷
スタートアップにジョインするまで受けた知財教育
スタートアップにジョインするまでの僕は、大企業クライアントを中心とした明細書作成者であった。
弁理士として初めて携わった明細書は、上司の赤ペンの試し書きのようだった。
大企業クライアントからの修正指示は、僕には理解できないものばかりだった。
当初は、絶対的な正解があると信じて、1つ1つの修正指示に向き合っていた。
しかし、絶対的な正解なんてものは存在しないことに気づくのに、5年程の歳月を要した。
上司も、自分の仕事が忙しい中で僕の明細書をチェックしている。
完璧な修正指示はできていないはずだ。
クライアントだって、そのときそのときの状況によって、指示がぶれるのは当然のことだ。
クライアントにとっての代理人は僕だけではない。
もし、弁理士になりたてのあの頃に戻って自分に1つだけ伝えることができるならば、「唯一解を求めるな」と言ってやりたい。
スタートアップにジョインしてから受けた知財教育
僕がスタートアップにジョインしたのは、創業直前であったので、社員は1人もいなかった。
創業してからも、何もなかった。
全てに前例がなかった。
全てに新規性があった。
経験の全てが学びでしかなかったのだ。
教えてくれる人もいない。
仕事を評価する仕組みもない。
それでも歩みを止めるわけにはいかない。
その中で、毎秒毎秒で少しでも経験値を得ようと藻掻いてみると、自分の中で「知財」というものに真摯に向き合う姿勢が芽生えてきた。
その結果として、「広義の知財」という概念にまでたどり着いた(イマココ)。
【「広義の知財」に関する関連記事(弊ブログ)】
いまそのときそのときで必要なことをする。
そのために足りない経験は、学びで埋める。
この姿勢が新たな学びの機会を作る。
教育とは、誰かを教え育てることではなく、誰かを教えることで、自分を育てることなのかもしれない。
「知財業界の教育」に思うこと
「知財業界の教育」というと、どうしても、知財人財同士の教え合いというイメージがある。
正直、この記事だって、知財人財以外の人が読むことは多くないだろう。
しかし、前述のとおり、「教育」(他者への知識の教授)の最大の作用効果は、自らの知識の獲得による自らの成長にある。
教える知財人財が向上心を持ち、教えられる知財人財は、そう遠くない将来に自らが教える立場たらんとする。
年齢や経験、ましてや業界には依存せず、全ての人財がこのように交流し合うことにより「教育」の仕組みが組織的になり、その結果として、社会に提供できる価値が最大化するのだと思う。
むすび
知人でもあるドクガクさんから再三にわたるDMのオファーを受け、重い筆を取って「教育コンテンツ」としての記事を書いてみた(結果的に日付をまたいでしまったが)。
例に漏れず、自らが世にどんな価値をもたらせるかを考えるきっかけになった。
最後に、このブログから何かを学び取ろうとしてくれる殊勝な読者に伝えたいことは、「次は僕にとっての教える立場になって欲しい」ということだ。
知財人財は、抽象概念の言語化に長けた稀有な人財である。
そのような人財同士が、他者に知識を与えることで自らを育てようとし続けている限り、知財人財は世の中に価値を提供し続けることができると信じている。
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