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詩経とLinux

詩経がとてもおもしろい。

プログラミングにおけるコンピュータ・サイエンスのようなものが思想においてもあるのではないかと仮定し、ついに見つけてしまったのが詩経だ。詩経は儒教の原点になったとされる300の詩からなる詩集である。

これらの詩の1行はたった4つの漢字から構成されている。これらの4つの漢字に懐かしのレ点や一二点がついてるのだが、私は高校中退の身なので文の読み方はさっぱりわからない。

文字も中国の漢字なので知らないものが多々出てくる。文の読み方はわからないし、知らない文字も多いが、漢字は表意文字なのでなんとなく意味はわかる。

なぜか詩の一行一行を美しいと感じる。

変な話だが、新しいプログラミング言語を学ぶ体験とよく似ていると思った。エンジニアはまったく知らない言語でも文脈を読み取ってなんとなく理解できるのだ。

なんとはなしにこの不思議な体験を味わっていると、やがて疑問が湧いた。これでは解釈が個人に依ってしまって、何かの原典としては機能しないのではないかと。

孔子は「詩の勉強をしないものは何を言ってもダメだ」と言った

私が読んでいる本の解説には上記の記述が出てくる。なぜ詩の勉強をしないものは何を言ってもダメなのだろう。

同じような文脈で『コンピュータ・サイエンスを知らない人間は、何を書いてもダメだ』と言われるのを聞いたことがある。

後者はたしかに理解できる。コンピュータ・サイエンスは厳密で疑いようの無い原理だからだ。

しかし詩経は4文字の文から成る詩なので、個人によって解釈がかわってくるだろう。厳密でない原理を勉強しないといけない理由はなにか。

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意が顕れる

そんな疑問を頭の片隅に置きながら、詩を読み進めていると面白い事に気がついた。漢字そのものが面白い。

漢字は1文字でも意味を表す事ができる。それどころか1文字に複数の意味がある。

見かけ上は4文字から構成される詩の1文には理論上無限の情報を納める事ができる。逆に言えば詩を書いた紀元前11世紀の中国人は無限の情報を4文字に納めて森羅万象を表現しているのである。

この作業はエンジニアなら誰しも経験がある。リファクタリングだ。

ため息がでる。昔の中国人は、なんという天才ハッカー集団なのだろうか。

ここまで来ると前述の孔子の件の意味が分かる。詩を読む事は想像する事、詩を書く事は想像を形にする事。詩の勉強は想像力の鍛錬である。そしてこの鍛錬をしていない人間は何を言ってもダメなのだ。

詩経を勉強する意味が理解できた。

詩経そのものではなく、想像力をトレーニングする行為自体が重要なのだ。想像力をトレーニングするためにこれほど最適な教材はないだろう。なんといっても4文字に無限の情報が詰められているのだから。


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結び

コンピューターサイエンスの文脈にはLinuxというものがある。

Linuxにはカーネル( kernel )とシェル( shell )という重要なものがあり、それぞれが意味するものは仁と殻だ。つまり種を表していると言える。

そして儒教には『仁、義、礼、智、信』という概念があり、孔子によれば『仁』がもっとも重要な概念らしい。

儒教とLinuxは繋がっているのかもしれない。

私は無知だ。詩経も知らないし、Linuxのソースコードも読んだことがない。

しかし思い浮かべることができる。

無知の知ならぬ、無知の想だ。

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