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写真について

 祖母が旅行先で撮った写真を見ることが写真と私との出会いでした。私の祖母は写真を撮る人で、異国の建築や人々、日本の山々や海岸、地層を写真におさめていました。そして、ときどき祖母に会う時には、彼女の撮った写真を彼女の説明とともに見るわけですが、私は彼女が写真を通して、そうしたもの(人々や建築、風景など)と関わろうとするのを小さい頃からずっと、断続的に見てきました。つい先ほどそう述べたようにこれが私にとっての写真との出会いではあったのですが、同時にこれはずっと不思議でした。そして、自分で写真を撮るようになっても、この疑問はより深まるばかりでした。

 祖母の写真の中にはとてつもなく美しいものもありました。しかし彼女はその美しさには目もくれず、写真を通り越した先にある被写体や旅行の物語そして社会問題、またはその手前にある自分の感情や体験、意見についてしか話しませんでした。私は写真を通して、あるいは写真をきっかけに何か他のものを見たり知ったり関わったりしようとすることにずっと強い違和感があって、やはり写真と触れたおおよそ初めての頃から、写真にとって外側にあるものでしかない『世界』との関係にはどうしても手が届かなかったのです。ある写真の中に私や写真にとって正直なものがあるとすれば、それは写真と私との関係のうちにのみ存在するもので、その他のものは私や写真にとって不誠実なものだと、私はただ直感的にそう思うのです。

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 私は手動でピントを合わせるマニュアルフォーカスレンズを使って写真を撮ることが大好きです。またカメラもマニュアルモードに設定して、シャッタースピードや絞り、そして感度なども全て手動で合わせて写真を撮影しています。少し込み入った話になってしまいますが、マニュアルフォーカスレンズでピントを操作するためには、レンズについている『フォーカスリング』という部分を回してレンズを操作します。また古いレンズだと、絞りを操作するためにも、レンズについた絞り環という部分を回さなければならないのですが、私がフォーカスリングや絞り環を回すその物理的な力がまさに絞りやレンズの位置や状態に繋がっていて、そのことによって私は情報をレンズとシームレスにやり取りすることができるのです。このとき私にとって、フォーカスリングの回転や絞り羽根の状態の変化とそうした変化によってじんわりと変化してゆく像が最も、そして他の何よりも大事なこととなってしまいます。そして、この体験がずっと私にとっての写真であって、私が写真において最も愛する体験なのです。言葉を返せば、このとき被写体や光景、私の社会的状況や感情、感覚、あるいは光景や被写体に対する私の感情も含めた写真の外にある他のすべてのことが、ほんとうに、ほんとうに——ほんとうに、どうでもよくなってしまう。この体験が私にとって重要な写真的なものなのです。

 このようなことが、撮影時にはレンズのピント距離や絞りの他にもシャッタースピードやフィルム、現像時にはフィルムの銀塩やデジタルのピクセル一つ一つにおいて成り立っているように感じます。だから、街で写真を撮っていても、像に関する興味はとても強いものの、周囲の状況にはむしろどんどん本質的な関心を失ってゆくようで、心ここに在らずという感じになってしまうのです。このように写真を撮っている最中、カメラや、私が今まさに触れているレンズのさらに先にある光景や被写体が、今私が触れているレンズやカメラというものにくらべて大事なわけがないという感じが強まると、街中でもたまに泣きたくなるときがあります。カメラは私と同じように、実のところこの世界と何の関わりも持たず、孤独で、しかし彼は幸福な孤独と強さを持っているのです。

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 フォーカスリングを回してゆくと、徐々にピントの合う位置や作り出す像の質が移り変わってゆくのがわかります(2024年の展示では会場に私の中判カメラを置いておく予定です)。指の動きがレンズを連続的に動かし、それは光速で変化する像ともつながっています。私はここに、唯一、私がこの深さで関われるものが存在しているのだと感じます。そのようなときに、どうしてみんな、光景や被写体に注目して、ときにはそのうえで感動などできるのか。私にはずっと疑問であり、なぜなら私は写真機が本当に好きで、私が写真を撮りたいと思うのは、ただ、カメラと私が密接に情報をやり取りし、新しい画像を生み出すことやその瞬間に得られるものを得たいと思うからなのだから。

 ヴィレム・フルッサーという哲学者は『写真の哲学のために』という書籍のなかで「結局、写真家が作り出そうとしているのは、以前にはけっして存在しなかったようなさまざまな事態です。しかし、彼はそのような事態をその外にある世界のなかに求めるのではありません。なぜなら、彼にとって世界は作り出されるべき事態のための口実にすぎないからです」と述べています。この部分は、まさに写真機と私の関係を的確に言い表していると思います。私にとって被写体や光景は口実にしか過ぎません。人がなにか言い訳をするとき、口実は不可欠であり非常に重要なものですが、しかし言い訳の本質とはなんの関係もありません。同じように、もし写真においても、なにか一つでも感動のできる部分があるとすれば、それは口実の部分にではなく、ある写真が提示する装置の可能性の新しさや装置と機能従事者との関係性の中にあるはずなのです。

 これはよく、ジェンダー写真論などで指摘されることですが、ある時期まで(そして今もかもしれませんが)女性や、あるいはある人が写真において『見られる対象』としてあったことの哀しさと同様の哀しさが写真にはあるのかもしれないと思います。つまり、多くの人が、写真を通して何か別のものを見ているということが、私にはそうしたことに似た哀しみを共有するように感じられるのです。そして、私なんかは、いままで私たちが写真をそうした方法で扱ってきたからこそ、ジェンダー写真論が問題とするような問題が写真において多発してきたのではないかと、強く思っています。つまり、そもそも、私たちと写真というものの関係性自体がそういった問題を内包しているのではないかということです。世界と写真と写真家、あるいは被写体と写真と写真家における屈折した関係を前提として私たちは写真の受容や製造——歴史を推し進めてきた過去があり、それが写真と私たちの関係において本質的な問題だと思うのです。そして私はこのような写真との関係に別れを告げようと思っています。

 さようなら、そして、はじめまして写真。

 さようなら、すべての人間とその視覚のための写真。そしてはじめまして写真——あなたとの対等で誠実な関係を願って。(2024/7/2)

佐久間大進 / Sakuma Daishin

お読みいただきありがとうございます。普段は京都市芸で制作をしながら、メディア論や写真論について研究しています。制作や研究活動をサポートしていただけると幸いです