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写真において気持ちのいいこと気持ちの悪いこと

 こんにちは、ご無沙汰しております佐久間大進です。今日は久しぶりに最近思っていることをテーマに短いノートを書いてみようと思います。
 今回のテーマは写真における気持ちよさとか気持ち悪さです。抽象的に言えば写真の良し悪しについて考える中でこのテーマが現れてきます。また写真の『良し悪し』と言っても、今回は特に構図とかピントについて考えるということになると思います。
 写真の良し悪しについて、日々考えて生きているわけですが、その中でも良し悪しについての考え方とか評価軸、取り組み方が変化したり、そもそも良し悪しという概念の重要性みたいなものが高まったり低まったりという変化は常にあるようなものだと思います。写真の良し悪しをはかるための評価軸として代表的なものとして、まずは綺麗=汚いとか上手い=下手という2つが挙げられるかなと思います。この下にブレてるとかブレてない、ボケてるボケてないとかボケ味がどうだとか描写がどうとかいろいろそういう指標があったりもするのだろうと思うのですが、評価軸としての大きさで言えば先にあげた2つは階層の1番上に属するような包括的なものかと思います。この階層にある他の基準について考えるというのが今回のテーマであり、また最近私がいつも考えているようなことでもあります。
 気持ち良い=気持ち悪いという極が今回のテーマであるところの評価軸だということは察しの良い方ならすでにお気づきだと思いますが、これは一見、上手い=下手の極と重なるようにも思えるかもしれません。ただ、ここでは気持ちの良さというのは媚びた写真とか欲にストレートである写真について感じられる感覚のことを指しており、また気持ち悪さというのは『気持ち悪さ』そのものというより『気持ちよさ』の反対のこととして考えていただいた方がいいかもしれません。つまり、人に媚びてない、ちょっと捻くれていたりずれている写真を気持ち悪いといっているのです(気持ち良くないと言った方がわかりやすくはあるかもしれないですね)。いずれにしてもこの場合、上手いけど気持ち悪い写真もありえるし、(上手くはないという意味で)下手だけれど気持ちの良い写真もあり得るわけです。そして最近私の中で最もアツいのがこの、上手いけど気持ち良くはない写真なんです。
 ここで言っている上手さというのは本当に相当上手くないといけなくて、それはその写真の気持ち悪さによってぱっと見であってもその上手さがかき消されるということが決してないような明らかさと完全性のある上手さでないといけないのです。逆に言えば、ある写真はその上手さによって扱える気持ち悪さの度合いを変えるとも言えるかもしれません。
 この気持ちよくなさはよく微妙なピントの山の位置のハズシや構図の微妙な(そして微妙だからこそとても気になる)ズレ、絞り切らずに被写界深度が絶妙に浅いことによるボケといったようなことに代表されます。また近年リバイバルしているフィルムとかオールドレンズ趣味もこうした美学の一つの現れかもしれないと思ったりもします。

三溪園
城ヶ島
城ヶ島

お読みいただきありがとうございます。普段は京都市芸で制作をしながら、メディア論や写真論について研究しています。制作や研究活動をサポートしていただけると幸いです