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「いい写真」の在るところ

仕事柄、「カメラが欲しいんだけど、何を選べばいい?」とか、「写真の撮り方を教えて」といった声をかけられることが多い。僕は写真家ではないのだけれど、写真雑誌の編集をしたり、写真教室の運営、写真展の企画など、「写真」にまつわるありとあらゆる事業を展開している少し特殊な会社に、もうかれこれ10年ほど勤めている。

「写真を撮る」職業ではないので、細かな撮影技術を教えることはできない。ただ、露出やシャッタースピードの関係性や、構図が人に与える印象についてなどの基礎的な知識は、聞かれればひと通り教えられる。あるいは、どのカメラメーカーにどんな特徴があり、購入予算などを勘案して「あなたのカメラの選択肢はこれじゃないか」くらいの提案ならできる。初心者から中級者に教えられるカメラや写真の知識は持っているつもりだ。

そんな中で、投げかけられると即答できなくなる質問がある。それが、「どうすれば”いい写真”を撮れますか」という問いだ。写真教室に訪れる人たちは、あたりまえだが「いい写真を撮りたい」という思いをもっている。しかしあまりにも素朴なこの質問は、しばしば僕を困らせる。

なぜ即答できないのか。「いい写真」は、個人の主観でしかないからだ。「いい写真」かどうかは、「どこに(誰に)評価基準を設定するか」によって大きく変わる。たとえば、あなたが身近な人を写した大切な写真があったとする。それは「”あなたにとって”いい写真」あることに、否定する余地がない。しかし、その写真をあなたと被写体のことを知らない誰かに見せたとき、その写真の価値は一瞬で地に落ち得る。

あたりまえの話に聞こえるが、写真をはじめたばかりの人が「この写真(もしくは写真群)が、いい写真かどうか?」の問いを立てたときに、どこにアウトプットし、誰にとってのいい写真であるべきなのかを考えられていない場合はとても多い。写真発表は、SNS、写真集、個展、グループ展など形も観客もさまざま。たとえばインターネットで写真を発表していくことを考えている人に、写真集制作を想定したアドバイスをすることにほとんど意味はない。(「あなたの作品なら、写真集を目指して作るべき」というようなアドバイスはあり得るが)

もちろん、写真を気軽にはじめたい人に「評価基準を明確にしろ」と言うつもりはないし、写真を崇高なメディアにしたいわけでもない。ただ、これから写真をはじめたいと意気込む多くの人にとって、最初の発信のほとんどがSNSだと考えたとき、「いい写真=SNSでいいねされる写真」と無意識に置き換えている可能性が高いことに違和感を感じることがある。SNSを基準にすることは、自分の写真が受け入れられるかどうかのひとつの指針にはなるが、「映える」写真がわかりやすく反応されるSNS”だけ”が基準になると「写真表現」の幅を大きく狭めてしまう。そもそも、主観で判断される以上、基準を意識せず「いい写真が何か」を語ること自体にはあまり意味はないのだ。

ただ、あらゆる表現が、作品と受け手との対話から始まることを考えると、「自分にとっての”いい写真”が何か」はあっていい。というか、あるべきだ。そう考えたとき、僕個人が重要だと思うのは、表出の形としての写真そのものよりも、そこに内在している撮影者の「視点」を考えることだ。写真に「その人の視点」が現れ、そこに独自性を見出されている写真が「いい写真」であり、写真の楽しみや価値が発揮されると考えている。

こんな経験したことがある。ある地方都市の市立小学校4年生を対象に「写真」の授業をさせてもらったときの話だ。デジタルカメラをクラス30名全員に渡し、簡単なカメラの扱い方のレッスンをしたうえで「この教室の中で、”ここはどこでしょう?”という場所を写真に撮ってください」と声をかける。すると子供たちは、創意工夫を凝らしながら、たった60平米の見慣れた狭い教室の中を、あらゆる角度から見直し、撮り始めるのだ。きゃあきゃあと高い声で楽しそうに騒ぎ写真を撮る生徒たち。ある生徒は天井の模様を拡大していろんな角度から眺め、ある生徒はカーテンに生まれた影の面白さに気づき、ある生徒は毎日使っている机の裏側を覗き込む。それぞれがファインダーの中に見つけだした景色の面白さや美しさが、右手人差し指1本でいとも簡単に画像として定着し、多様な形で視覚化されていく。10分後、生徒たちが撮った写真を順番に見せていく。撮影者以外の生徒からは「ここはわかる!」「こんなところあったの?」「これは分からなかった!」と歓声があがり大盛り上がりだった。

この写真講座は、写真が持つ価値を改めて実感させてくれた。それは大きく2つあって、ひとつは日常の中の新しい「視点の獲得」だ。ファインダーで切り取ることは選択すること。何を拾い、何を捨てるかを意識することになる。毎日暮らしている同じ場所でも、写真に捉えようとすることで目の間に見えるものを再度認識し、今まで見ていなかった景色として解釈していく。今まで自分が持ち得なかった視点を、カメラを持つことで獲得できる。
そしてもうひとつが、獲得した様々な視点から得られる「多様性の承認」。ひとつのテーマや言葉を投げかけても、撮られる写真には必ず差異が発生し、全く同じになることはない。言葉で「多様性」と言っても、小学4年生の生徒たちにとっては実感しづらいが、写真なら一目瞭然。個々が持つ視点が「多様である」と同時に、「多様でいい」ということが写真を通して視覚的に楽しく受け入れられていく。そしてこのとき、生徒たちがシャッターを切る基準は「自分にとって面白いかどうか」でしかない。撮影の技術などは皆無で、無駄なものばかり写っていたとしても、「こんなところに興味を持つのか」という彼ら・彼女らの視点を目の当たりにしたとき、「いい写真だ」と思えたのだ。

写真は、決められたフォーマットによって個々の「視点」が否応なく表出させられるツールだ。そしてその「視点」は、その人がどのように世界や物事を視ているかであり、そこには人の考え方や生き方が反映される。ここに、「いい写真」であるかどうかが隠されていると考えているし、その視点を用いて物事に価値を与えられる人を写真家と呼ぶのだと思っている。この小学生たちの写真も、さすがに経験や知識としての考え方・生き方は反映されていないが、日々新しいものと出会う、この年齢でしか感じられない世界との向き合い方としての考え方・生き方は反映されていたはずだ。

写真をよりよく楽しむために、「いいね!」から逃れ、カメラを持ちまちを散策して、気ままにシャッターを押せばいい。道端に捨てられたゴミばかりに目がいくようであれば、「孤独」なものに惹かれる自分に気づくかもしれない。ある一定の色や、形に惹かれる自分を発見するかもしれない。写真を通して土地の歴史に思いを馳せることもあるだろう。それはどこに発信されるものでなかったとしても、それは間違いなくその人の「視点」だ。それを視覚的に自覚させてくれるのが、カメラであり、写真だと思う。「いい写真」は、誰かに教えてもらうものではなく、自分の中にしかないのだ。

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