新千夜一夜物語 第15話:願いと代償

青年は思い悩んでいた。

先日、某宗教団体の会合に出席した件についてである。“南無妙法蓮華経”という言葉は宇宙の理を表しており、しかもその言葉が書かれている紙は生きていて、ぞんざいな扱いをすると良くないことが起こると信者の人々は信じているようだった。

見えない力が現世的に働いている以上、何らかの霊障が関わっているのかもしれない。

そう思い、青年は陰陽師の元へ向かうのだった。

『先生、こんばんは。今日は呪いについて教えてください』

「呪いじゃと、それは物騒な話じゃな。いずれにしても、もう少し具体的に説明してくれんかの?」

『先日、新興宗教の会合に参加してきました。信者の方のご自宅には “南無妙法蓮華経”という言葉が書かれた、“御本尊”と呼ばれる紙が祀ってあり、それに向かってお経を読み上げていました』

「ああ、例の新興宗教じゃな」

『もうおわかりですか!』

微笑みながらうなずく陰陽師を見て、青年は目を見開く。

「あそこは有名じゃし、信者数も多いからな。しかし、それと呪いがどのように関係するのかな」

『信者の方々の話によると、御本尊は生きているから雑な扱いをするとよくないことが起こると言っていましたが、それが僕には呪いか祟りみたいな感じがしたんです』

黙ってうなずく陰陽師。青年は続けることにした。

『信心が薄く、意図的に乱暴な扱いをする人物が罰を受けるならまだしも、毎日必死にお経をあげているような信心深い信者に対し、罰を与えるような存在が仏教にはあるのでしょうか?』

「百歩譲ってその新興宗教を大乗仏教の一部と位置付けたとしても、仏教にそのような意味で人を罰するような存在はおらんと思うがの」 

『そうですよね。少なくとも、僕には罰を与えるような存在を信仰の対象にすることはできそうもないです。御本尊に“何か”が宿っているとしても、別次元の存在でしょうから、仮に僕たちが現世的な粗相をしたところで、その“何か”が罰を与えるなんてどう考えても筋が通りません』 

「たしかに、そなたの言う通りじゃな」

青年は腕を組み、うなりながら言う。 

『それにしても、極端な言い方をするとたかが紙なのに、どうして罰が下るような力を持っているのでしょうか? 信者の人々が言うように、本当に御本尊に何かが宿っているのでしょうか?』

「先に結論を言ってしまうと、“南無妙法蓮華経”と印刷しただけの紙には何の効力も存在しない」

予想外の回答に、青年は脱力した。陰陽師は青年の様子がおかしかったのか笑みを浮かべる。

「ただし、そのようなグッズに何らかの念を入れることによって、そなたが聞いたような現象が起きることは、ないとはいえんじゃろう」

『それは、いわゆるグッズの霊障といったようなものなのでしょうか?』

陰陽師は紙に人型と長方形を描き、答える。

「そなたは“生き霊”については、すでに理解しておろうな?」

『例えば、僕が先生のことを憎く思って長時間恨んでいると、先生のところに僕の魂の一部が飛んでいくという現象です』

「うむ、その解答に点数をつけるとすると、30点くらいかのう」

青年は自信満々で答えたが、赤点ギリギリである。

「世間一般でいう“生き霊”は、恨みといったネガティヴな感情をベースとして語られることが多いが、実体はそうでもない。誰かに恋い焦がれたり、病気になった人間を元気づけようとしたり、家内安全を願うといった一見ポジティブな感情でも“霊障”の原因となることがある。それ故、ワシの場合、それらを他者の“念”と呼んでおるわけじゃが」

『え、相手の幸せを願ったりすることも、“霊障”の原因になる可能性があるのでしょうか?』

眼を大きくする青年に向かい、陰陽師はうなずいて答える。

「この世の出来事で例えるなら、子供に無事でいて欲しいと願うあまり24時間監視をしたり、子供の幸せを望むあまりに、子供の好みを確認せずにオモチャの類を勝手にプレゼントしたりといった、親バカが過ぎた干渉は、子供からすれば、迷惑以外の何ものでもないじゃろう?」

『子供の立場からしたら、重いと言いますか、場合によってはたしかに迷惑に感じるでしょうね・・・』

「相手への愛情といってしまえばたしかにそのとおりなのじゃろうが、ものには限度というものがある。強すぎる想いはともすれば相手に負担をあたえる原因になりかねないじゃろうし、それを念と呼ぶとすれば、やはり相手が望まない影響を与えてしまう結果を引き起こしかねない」

『受け手、送り手、双方にその気がなくても、結果として霊障となりうると』

「それだけではない。仮に、直接相手に念を飛ばさなかったとしても、御本尊に向かい家族が健康になりますようにとか、会社のピンチから脱出できますようにと必死に願っていると、御本尊自体に同様の“念”が宿ってしまうことさえある」

『家族を想っていても、願っている時は御本尊に対してですもんね。その結果、グッズの霊障が生じてしまうと』

「そのとおりじゃ。さらに言えば、お経を読んでいる当人になまじ霊能力(±*)があったりすると、その念は一層強力なものとなる」

『霊能力持ちにそのような自覚がないと、事態がさらに悪化するわけですね』

「そういうことじゃな」

陰陽師は、青年の言葉に一つ頷くと、言葉を続けた。

「他にも、本来はただの紙である御本尊に念のようなものが宿るケースが考えられる」

『たとえば、どのようなケースでしょう?』 

「おそらく、その御本尊はどこかで大量に印刷され、信者に配る前に特定の場所で保管されているのだと思うが、仮に御本尊の流通に携わる人の中に霊能力持ちがいて、ご本尊を運ぶ際に“これは非常にありがたい御本尊だ”などと考えただけでも、念が入ってしまうことがある。そしてこのような構図は、ご本尊に限らず、神社などのお札やお守りの類にも適用されるので注意が必要じゃ」

『おそるべし、霊能力持ち・・・』

「もっともこのあたりの話は、霊能力持ちでなくとも、一般の人間、特に魂の属性3の人間が、ものに対して過度な執着心や愛着心を持った場合も同様の現象がおこる可能性があるので、合わせて注意が必要となる」

青年は、陰陽師の言葉に大きく頷くと、質問を続ける。

『ところで、特に念が宿りやすいグッズとかはあるのでしょうか?』

「それを持つ人間の属性にもよるが、先程も話したように、神棚やお札やお守りといった神道系の神具、仏像やお札といった仏教系の神具、パワーストーンなどの宝石類には特に注意が必要となる。毎日祈ったり、身に着けたりしているものじゃから、それだけ霊障がつきやすいからの」

『我が家は仏壇に手を合わせる習慣があるので、仏壇系はあやしいですね。毎日お線香をあげて読経していた時期もありますし・・・』

青年は額に手を当て、首を振る。

「どれ、そなたの持ち物の中で気になるものがあれば、鑑定してみよう。霊障がついていそうな気のするグッズを書き出してみるとよい」

青年は記憶を辿り、思い出した物から紙に書き出していく。

陰陽師はリストアップされたグッズの横に文字を書いていく。


神棚2+、徳利2、皿2、榊立て2、仏壇、
熊の剥製2、鳥の剥製2、懐中時計、軍刀の鍔2+、将棋盤2


『2と2+がありますが、これはどう違うのでしょうか?』

「2は霊障がついているもの。2+はさらに強力な霊障がついておるというか、妖気が漂っているものと考えるがよい」

青年はもう一度鑑定結果を見、驚嘆の声をあげた。

『ゲゲエ!? 神棚と軍刀の鍔に2+があります!』

陰陽師は小さく笑い、口を開く。

「神棚はともかくとして、軍刀の鍔はいったいどのような由来の品なのかの?」

青年は眉間にシワを寄せ、重そうに口を開く。

『軍刀の鍔は父方の祖父の形見の品でして、祖父が亡くなってからずっとお守りのように携帯していました。祖父が生前に行けなかった土地に連れて行ってあげられるようにという思いです』

陰陽師は大きく、ゆっくりとうなずく。

「祖父を大事に想う気持ちはよくわかるが、四六時中想い続けることで逆にそなたの念を軍刀の鍔に宿らせてしまったのかもしれんな』

『軍刀は祖父ではありませんので、ある意味大きな勘違いや思い込みをしていたのだと思います。祖父の死を受け入れられず、執着していたと言えるかもしれません』

青年は頭をかき、苦虫を噛み潰したような表情で続ける。

『祖父は無事にあの世に帰還しているわけですから、この世に未練もないわけでしょうし』

陰陽師は柔らかい笑みをたたえて答えた。

「必要な時があれば祖父はそなたのことを手伝ってくれ、何らかのメッセージを送ってくれる。それに、そなたの想いはしかと伝わっておるようじゃから何も心配することはない」

青年は真剣な表情に切り替わり、深く頷く。陰陽師は言葉を続ける。

「キリスト教の“マタイによる福音書”(第8章)に次のような一説がある」


弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 イエスは言われた。「私に従いなさい。死んでいるものたちに、自分達の死者を葬らせなさい。


青年は腕を組み、首を傾げながら黙考し、しばらくして口を開いた。

『これは、例えば、亡くなった祖父のことを曽祖父や他にご縁があった魂が迎えに来て面倒をみてくださる、ということでしょうか?』

「もちろんそういった解釈も可能じゃろうが、キリストは、“死んでいる者たち”に世間の常識や習俗に囚われてばかりいて、しっかり生きようとしない人たちといった意味合いをその言葉に付加しておるようじゃ」

『そこには、今この瞬間だったり、自分の天命や人生を真摯に生きていない人のことも含まれているのでしょうか?』

陰陽師は首肯して答える。

「もちろんじゃとも。どれだけ思い悲しんだところで死者が生き返ることはないし、葬式は死者に対する儀式であるから、つまりは過去のこと。それよりも今を大事にしなさい、世間のしがらみや束縛を脱して天命を生きなさい、という意味がキリストの“死んでいるものたちに、自分達の死者を葬らせ、私に従いなさい”という言葉に含まれておったのじゃろうな」

『葬式やお金儲けに走っている現代の大乗仏教の坊主にとっては耳が痛い話ですね・・・』

青年は苦笑し、陰陽師は小さく笑って答える。

「そうは言っても遺族が故人を偲ぶのは当然のことじゃし、葬式には遺族側の気持ちを整理する機会といった側面もあるわけじゃから、葬式をするなということではない。そうではなく、“習俗”としてやるべきことをきちんと行った後は、いつまでも過去に捉われることなく、未来に向かって歩みだす覚悟が必要ということじゃ」

『葬式の最中は葬式でやるべきことをやり切り、亡き人とのお別れをしっかり済ませ、葬式が終わった後は再び天命や今世の課題に真摯に取り組むということですね』

陰陽師はうなずいて答える。

「前にも話したと思うが、“死後のことは考えるな”、“今・ここで・私”が生きていることを仏教では“即今・当処・自己”と呼ぶ(第7話参照)」

『そうでした。先生からその話を聞いてから、自分の人生・天命を軸に生きようという意思が強まったのを覚えています』

青年は真剣な眼差しで言い、陰陽師は満足げな表情でうなずく。

『ところで、“御本尊”の話に戻りますが、実際に体に悪影響が出るような体験談もあったようですが、いったい何が起こっているのでしょうか?』

「それは、眷族によるものと考えるとわかりやすい。眷属とは、本来、神の使者を意味し、その多くは神と関連する想像上の動物を含めた動物の姿を持つのじゃが、神道では、蛇や狐、龍などがそれにあたる。また、彼らは神使と呼ばれたりもしておるが、いずれにしても、人間を越える力を持つため、“眷属神”とも呼ばれ、眷属神そのものを祀る神社まで存在しておる」

『神社では同じように扱われていますが、神と眷属はまったく立場が異なるわけですね』

陰陽師は神と眷属と人間を図で描きながら続ける。

「いずれにしても、そのような眷属には願いを叶える力がある反面、その代償を求められるという負の側面がついて回ることを忘れてはならん」

『それについては、どこかで同じような話を聞いたことがあります』

「そもそも、宇宙の秩序を司る本物の神様は、我々下々の私利私欲に満ちた願い事などに耳を傾けるはずはない。そのような願い事を聞いてくれるのは、神様ではなく眷族と考えた方がよい。そして、眷族に限らず、我々の私利私欲に満ちた願いに耳を傾ける存在には、その対価として不利益をもたらす力も同時に持っていることもよく肝に銘じておくことじゃ」

青年は目を見張り、表情がこわばる。陰陽師は青年を横目に続ける。

「何の霊障がグッズ類についているかは鑑定してみて初めてわかるわけじゃが、ほとんどの場合、グッズ類についている霊障というのは自らの念が自分に跳ね返ってきたものか、それらの眷属にものごとを頼んだ代償と考えてよい。そのような意味で、くだんの御本尊なぞも丁重に扱っていれば利益をもたらすのじゃろうが、ぞんざいな扱いをした途端に機嫌を悪くして良くない事態を引き起こしたとしても何ら不思議はないわけじゃな」

『そう言えば、自宅の敷地内にお稲荷さんを祀っていて、次の代の子孫に信仰心がなくて放置していてよからぬことが起きた、という話はよく聞きます』

「たとえば、家業は三代で潰れる、という諺などは、そのあたりの経緯をよく伝えておるわけじゃ」

『つまり、初代が自力で乗り超えることが不可能な大きな壁にぶち当たり、もはや自分の力ではどうしようもない時に、本物の神様ではないおキツネ様に救済を頼み、一度は窮地を回避できたとしても、二代目はともかく、孫である三代目がそのような先代の恩をないがしろにしたりすると、おキツネ様から強烈なしっぺ返しを受けるということなのですね』

「まさに、その通りじゃ」

陰陽師は首肯して、言葉を続ける。

「話を先ほどの御本尊に戻すとすれば、仮に新品の御本尊に霊障がなかったとしても、先代が読経しながら私利私欲に満ちた願い事をし続けたりしていると、信心のない子孫が御本尊を雑に扱うことによって霊障を受けるということは十分に想定できるわけじゃな」

『願いを叶えたいとか、ピンチな状況から助かりたいというのは欲と言えなくもないのですね』

「その通りじゃ。大乗仏教はいざ知らず、生身のブッダは、夫が妻のことを思う、両親が子供のことを思うことすらも“愛欲”だと断じておるわけじゃから」

『たしかに、人間は、弱い生き物なわけですから、ともすれば大局な見地を忘れ、私利私欲に走る傾向は強いと。宗教を信じていると言っている人間にしても、自分のことを丁重に扱ってくれる他人に対しては優しく接するものの、自分に害を与える他人には攻撃することが多いですし、我々の私利私欲に満ちた願いを叶えてくれる存在というのも、あまり人間と変わらない気がします』

「すがる対象が、生身の人間か見えない存在かの違いであって、結局は他力本願であることには変わりはないからのう」

『これからも、御本尊を大切にしている方々の信仰心は尊重しようと思いますが、信仰心によって生じる代償みたいなものについては気をつけたいと思います』

「そうじゃな。ただ、中には精神統一を目的としたり、内なる自分に向けて読経している人々もおるじゃろうから、読経を一概に否定するような態度をとらないようにの」

青年は納得するように何度もうなずく。

『そういった目的や効果もあるのですね。瞑想のような使い方でしたら御本尊に念がやどりにくい気がします。それと、天命を生きるようにシフトしてから、必要なことは自然に目の前の現象として現れるような気がしていますので、今手に入っていないことを願い求めてしまうのは、現世利益を求める欲に引っ張られている状態なのだということがようやくわかってきたような気がします』

「先ほども話したように、かのブッダも、欲と執着から解放されることの重要さを説いておるものの、ワシら凡人にとっては、言うは易し行うは難しで、欲や執着から離れることは、いわば一生をかけて成し遂げる究極の目標のようなものなのじゃ」

『はい。これからも欲や執着と向き合うことが多いと思いますが、人にもグッズにも生き霊や念を飛ばして霊障を与えぬよう、目の前のことを淡々と真摯に取り組んでいきたいと思います』

真剣な表情で青年は頭を下げ、陰陽師は笑みをたたえて小さく頷いた。

「ともかく大事なことは、カミとは願いを聞いてもらう存在ではなく、感謝をする存在だということをよく肝に銘じることじゃ。前にも話したように、我々人間が考えられる世界を“思議”と呼ぶ。そして、神が考える領域を“不可思議”と呼ぶ。その意味するところは、我々人間からしてみると大きな失敗や不幸というものも、実は大きな成功や幸福の序曲だったりすることがままある」

『つまり、大きな山が来るためには、まず谷が必要なのですね』

「まあ、簡単に言うと、そういうことじゃな」

青年のおかしな比喩に笑いながら、陰陽師はつけ加えた。

「いずれにしても、グッズの無害化は今夜中にしておくから、気をつけて帰るのじゃぞ」

『よろしくお願いいたします。いつもありがとうございます』

青年は席を立ち、深く頭を下げた。陰陽師は微笑んで応え、青年を見送るのだった。

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