本当の孤独? ガルシア=マルケス『百年の孤独』
◆ご挨拶
こんにちわ、だいなしキツネです。
今日は、ガルシア=マルケス『百年の孤独』を台無し解説していくよ!
◆ガルシア=マルケスとは?
ガルシア=マルケスは、1928年頃(※諸説あり)にコロンビアで生まれ、ジャーナリスト、映画脚本家などを経て、1955年に『落葉』という小説でデビューした作家だよ。その後、1967年に『百年の孤独』で世界的大ヒットを飛ばして一躍ラテンアメリカ文学の旗手となったんだね。その他の代表作に『族長の秋』、これは権力者の孤独を不可思議な時系列と迷宮めいた現実感で描いた傑作だ。ここからも分かるように、ガルシア=マルケスは「権力」と「孤独」に取り憑かれた作家だよ。晩年にはキューバ独裁政権との関係が問題となるけれど、そこはエステバンとパニチェリによる評伝『絆と権力』(※序文がやたら格好良いのでオススメ)に任せて、キツネたちは本題の『百年の孤独』を読んでいこう。もちろん、『百年の孤独』も権力と孤独、言い換えれば、政治と共感の物語だ。
◆『百年の孤独』とは?
「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思い出したに違いない。」
この印象的な書き出しからして既に暗示されている通り、『百年の孤独』は、政治を扱い、文明に関係し、個人を追憶し、予言にまつわる物語だよ。「したに違いない」とは実に奇妙だね。断言している割に確証がない。そしてアウレリャノ・ブエンディア大佐は「銃殺隊の前に立つはめに」はなるけれど、銃殺されるともいっていない。実際、ブエンディア大佐は銃殺されなかった。しかし銃殺隊の前に立って、確かに氷を思い出した。この些細なディテールが、『百年の孤独』の独特の文体の核となるんだ。
『百年の孤独』の物語は、ざっくりいうと、コロンビアの奥地にある架空の都市マコンドの草創から繁栄、衰亡に至る過程をブエンディア一族百年の歴史とともに歩んでいくものだよ。ブエンディア一族というのは、ホセ・アルカディオとウルスラの夫妻(※この二人は親戚同士で、ブエンディア一族は常に近親相姦と畸形児誕生のおそれに悩まされる)を始祖とした、5人のアルカディオと22人のアウレリャノと2人のウルスラ、2人のアマランタ、3人のレメディオスその他数名からなる一家のことだ。やたら同じ名前が出てくるのはマルケス曰くコロンビアのリアルらしいよ?
名前が多くて混乱しがちだけど、アルカディオはみんな外向的、アウレリャノは内向的で、万事すったもんだやってると思えば大過ない。例外はホセ・アルカディオ・セグンド(※内向的)とアウレリャノ・セグンド(※外向的)の双子だけど、この二人はたぶん幼少期に入れ替わっていて、葬式の際にはまた入れ替わって元通りの名前で納棺される。
マコンドは、キツネのような自然科学的世界観に染まりきってしまった者にとっては実に不可解な都市なんだ。一族の始祖ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラによって率いられた数名の若者たちが、2年近くも海を目指して彷徨って、結局諦めてどこかの川岸で木を伐採してつくった空地がその始まり。時期は19世紀の前半とおぼしい。
草創期のマコンドは驚異の季節。旅のジプシーが訪れて、磁石、望遠鏡、氷、空飛ぶ魔法の絨毯、誰にも解読できない謎の羊皮紙などを持ち込んだ(※なんか変なの混ざってんね?)。不眠症の疫病が流行って住人すべてを悩ませて(※永遠の眠りへと誘う死の疫病とは対照的だね)、さらには健忘症との闘いで言葉と物の関係が窮地に立った。健忘症から救ってくれたのは再来したメルキアデスというジプシー(※メルキアデス:作中のキーパーソンで、ブエンディア一族の歴史に深く関わる)だったが、彼は既に死んでいたはずだった(※後に、自分が死んでいたことを思い出して死ぬ)。
繁栄期のマコンドは騒乱の季節。ホセ・アルカディオ・ブエンディアの息子アウレリャノ・ブエンディアは、町長の娘レメディオスと結婚するも早々に死に別れ、いきなり保守政権打倒に乗り出すと32回の神話的敗戦を経験し、生ける伝説となる。アウレリャノ・ブエンディア大佐の妹アマランタは、血の繋がらない姉妹であるレベーカとイタリアの伊達男を取り合っていたけれど、レベーカが兄のアルカディオと結婚すると一転して伊達男を自殺に追い込み、片手を竈に突っ込んだ。その頃のマコンドは名もなき更地から国家の一都市にまで格上げされ、より広い世界との人的・物的交流が盛んになっていた。次第に人口は増え、建物が増え、鉄道が引かれ、墓地もでき、気づけばアメリカのバナナ企業が進出していた。ホセ・アルカディオ・ブエンディアの曾孫アウレリャノ・セグンドは、希代の美女で女王としての教育を受けて育ったフェルナンダ(※偏執狂)と結婚する一方で、愛人のペトラ・コテスと畜産で大儲け、毎晩飲めや歌えの大騒ぎをしていた。なんたって、ペトラ・コテスが一撫でするだけで牛がぽこぽこ産まれるんだものね。
衰亡期のマコンドは失意の季節。アメリカのバナナ企業は地元の労働者を搾取し、それに抗議した人々を機関銃で一斉掃射した。その被害者数なんと3000。とはいえ、この事件を記憶している者は当事者のごく一部に限られて、事件の存在そのものが隠蔽された。アウレリャノ・ブエンディア大佐の32回の反乱にも関わらず、政治の腐敗は続いていた。アウレリャノ・ブエンディア大佐にはもう反乱を起こす余力がなかった。彼の17人の息子は一晩のうちに抹殺されて(※一人だけ例外としてしばらく生き残る)、次第にアウレリャノ・ブエンディア大佐自身も世間から忘れられていった。その頃になると、ブエンディア一族がマコンドの創始者であることを記憶している者も少なくなった。雨季がなんと4年以上続き、バナナ農園は衰退してアメリカ企業は撤退した。100歳を優に超えてなお一族を支え続けたウルスラも、死んだ。参列者は少なかった。朽ちた街並みを修復できる者はいなかった。ブエンディア一族最後の子どもが蟻の行列に運ばれて餌になると、ほどなくして、マコンドは風にさらわれて消え去った。
この一連の経緯、すなわち誕生から発展、絶頂、衰退、死に至る過程は、バルガス=リョサによれば「新植民地国家である第三世界の社会が辿ってきた様々な時代を再現している」とのこと(※バルガス=リョサ『García Márquez: historia de un deicidio』参照)。それにしても、この間に奇天烈な挿話が大量に含まれているのは興味深いね。既に触れたものの他には、チョコレートを飲んで空中浮遊する神父、シーツと一緒に昇天する少女、黄色い蛾を連れて歩く男、街中を伝って伸びる血、なんかが有名だね。にもかかわらず、これがファンタジーの作法ではなく、さりとてジョイスめいたモダニズムやブルトン的なシュール・レアリスムでもなく、叙事的で自然主義的な文体で提示されるというのはどういうことだろう。
そう、これは「非現実」を味わわせるために書かれた作品ではなく、「現実とは何か」を問う作品、すなわちリアリズムなんだ。
非科学的なのにリアリズム?
ご存知これを、マジック・リアリズム(※魔術的リアリズム)という。
◆魔術的リアリズムとは?
マジック・リアリズムは、用語としては1925年、ドイツの美術評論家フランツ・ローが公刊した『表現主義以後――魔術的リアリズム。最近ヨーロッパ絵画の諸問題』を嚆矢とし、主に表現主義以後の芸術的傾向について、表現主義と対比的に論じるための芸術概念だった(※種村季弘『魔術的リアリズム』)。この概念が様々に転用される中で、いつしかラテンアメリカ文学の潮流となり、一つの世界観の表現として花開く。きっかけは、1949年、アレホ・カルペンティエル『この世の王国』序文で展開された「驚異的現実」論だ。曰く、
「この物語(『この世の王国』)はヨーロッパでは決して考えられないものであり、それゆえ一切が驚異的なものになっている。しかし、物語自体は小学校の教科書に出ている道徳教育用のお話に劣らないほど現実的なものである。アメリカ大陸の歴史とは一切が、現実の驚異的なものの記録ではないだろうか」
カルペンティエル自身はどうにもヨーロッパ的な視角から離れることができずにいたけれど、同世代のミゲル・アンヘル・アストゥリアス『グアテマラ伝説集』や後続のフアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』等の文学的達成を説明する上では、この理論が大いに役立った。彼らは神話的な世界観をあくまでも現実のものとして提示し、それが結果として読者、概ねヨーロッパの読者に驚異を与える。近代合理主義に立脚する世界観とは全く異なる現実観があるという実感こそが驚異であり、その驚異は読者の世界観と作品の世界観との摩擦の中で生じるんだ(※だから南米の読者が読むぶんには全然驚異を感じないことがあるそう。ちなみに、神話的世界観があくまでも合理的で、知性的に理解され得る現実認識であるということは、レヴィ=ストロース『神話論理』等で熱心に説かれている)。
ここに、アルゼンチンで独自に発展した幻想文学がなんとなく合流し、なんとなく驚異的で幻想的なラテンアメリカ文学を総称して南米マジック・リアリズムと呼ぶようになった。その頂にあるのが、1967年に発表されたガルシア=マルケスの『百年の孤独』なんだね。
ガルシア=マルケスは自分のことをジャーナリストだという(※『パリ・レヴュー・インタヴューⅡ』参照)。『百年の孤独』を構成する挿話の大半は、マルケス自身が見聞きしたことだそうだ。例えばシーツと一緒に昇天する少女の逸話は、少女が駆け落ちしたことを恥じた家族が言い訳として捏造したものに過ぎないとか、バナナ企業の事件は実際にあった出来事を自分なりに誇張してみたとか(※そして今度はその誇張を信じる人々が現にいるという)。マルケスの問題意識は、具体的な現実に題材を求めること、そしてその現実が、このように奇天烈であることを正面から受けとめてみるべきだ、ということのようだね。もっとも、ガルシア=マルケス自身に誇張癖があることは明らかだから、正面から受けとめるというのは、真に受けることではないのだろうけれど(※ガルシア=マルケスとバルガス=リョサの対話『疎外と叛逆』が参考になるよ)。
ところで、マジック・リアリズムの成否は文体の精度にかかっている。マルケスがこそっと教えてくれるには、「象たちが空を飛んでいる、と言っても、ひとは信じない。ところが、425頭の象が空を飛んでいる、と言ったら、ひとはたぶん信じる」。『百年の孤独』は全編ディテールに事欠かない。アウレリャノ・ブエンディア大佐の反乱は32回、伏兵攻撃は73回、腹違いの息子は17人、チョコレートによる空中浮遊の距離は12cm、雨季は4年11か月と2日、少女はただ昇天するのではなくシーツと一緒でなければならない。
さて、そうまでしてガルシア=マルケスが描こうとした「孤独」とは、何なのだろうか。
◆百年の孤独の本当の孤独とは?
「私は何らかの形で孤独を感じたことのない人に会ったことがありません。」
ガルシア=マルケスは、孤独が人間の本質の重要な一部分だという。マルケスの孤独は、ブエンディア一族の死に様に色濃く表れる。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアは晩年になって気が狂い、庭の栗の木に繋がれていた。彼の話し相手は、若い頃にころしてしまったプルデンシオ・アギラルだけ。アギラルがいないときには無限につづく部屋を空想して楽しんでいたが、あるとき空想の部屋でアギラルに肩を触れられ、そこを現実と勘違いして居座ってしまった。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアの長男ホセ・アルカディオは、弟アウレリャノ・ブエンディア大佐の銃殺を妨害した立役者だったが、それを知る者は誰もなく、いつの間にか殺されていた。ホセ・アルカディオから流れ出した血は、部屋を出て、通りを抜け、階段を上り下りし、ウルスラのもとまで伝っていった。真相を知る者は誰もいない。その妻レベーカは、ホセ・アルカディオの死後は俗世との関わりを避け、頭も禿げ上がった老年になってようやく海老のように身体を丸め、親指を加えて死んでいた。
アウレリャノ・ブエンディア大佐は32回の敗戦を経て、消えなくなった悪寒に悩まされながら金の小魚の細工に没頭し、ある日サーカス見物をした帰り道に父が繋がれていた栗の木の幹に額を預けてぴくりとも動かなくなった。
その妹アマランタは生涯独身を貫き、晩年はただひたすらに自分の死に装束を縫い取って、つくり終えるとそれを纏って死んでいった。……
『百年の孤独』の孤独は、彫りが深い。その陰影に、読者は誰かしら、どこかしら、なにかしら自己投影が可能かもしれない。あるいは知人の面影を見つけるかもしれない。
孤独が人間の本質の一部なのだとすれば、『百年の孤独』に現れる数多の人物の横顔は、孤独の見本市である。マルケスは、巧みに読者の共感を誘ってみせる。南米では『百年の孤独』がホットドッグみたいによく売れたという。マルケスは南米の国民作家だ。南米の読者は余計に共感したかもしれない。日本人にとっての、太宰治のように。
しかし、共感可能なものは、本当に孤独といえるのだろうか?
いまここで、『百年の孤独』のラストを眺めてみよう。
一族の末裔アウレリャノ・バビロニアは、かつてジプシーが持ち込み、誰も読めずにいた羊皮紙の解読に成功しつつあった。マコンドには未曽有のハリケーンが襲来していた。
「……アウレリャノが、ぼんやりと理解しはじめながら最後まで解き切れなかったのは、メルキアデスが人間のありきたりの時間のなかに事実を配列しないで、百年にわたる日々の出来事を圧縮し、すべて一瞬のうちに閉じ込めたためだった。……知りぬいている事実に時間を費やすのをやめて、アウレリャノは十一ページ分を飛ばし、げんに生きている瞬間の解読にかかった。羊皮紙の最後のページを解読しつつある自分を予想しながら、口がきける鏡をのぞいているように、刻々と謎を解いていった。……しかし、最後の行に達するまでもなく、もはやこの部屋から出るときのないことを彼は知っていた。なぜならば、アウレリャノ・バビロニアが羊皮紙の解読を終えたまさにその瞬間に、この鏡の(すなわち蜃気楼の)町は風によってなぎ倒され、人間の記憶から消えることは明らかだったからだ。また、百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ち得ないため、羊皮紙に記されている事柄のいっさいは、過去と未来を問わず、反復の可能性がないことが予想されたからである。」
共感可能なものとは反復可能なものであろう。二人以上の人間の間で、同じものが響き合うということであるから。しかし、羊皮紙に書かれた一切、すなわち『百年の孤独』に書かれた孤独の一切は反復不可能であり、したがって共感を否定すべきものである。だからこそ、孤独なのだ。
あなたはこの作品に、何を読み込み、何を読み取っただろうか? いずれにせよ、それは反復不可能で、本来的に、孤独でなければならない。あなたは、共感に安住するのではなく、ただ独りで立っていなければならない。
誤解を誘うモチーフとして、この作品にはよく円環のイメージが用いられる。ウルスラがよくぼやいていた。時間は繰り返す、ブエンディア一族は同じ悪癖を延々と再現しているだけではないかと。だが、最後にそれは違うと明示される。この世界は、永劫回帰ではない、ただ一度きり、一人きりで進んでいく。
……にもかかわらず、何度も何度も繰り返しているような、反復しているような、共感可能なような、あたかも普遍的であるかのような孤独の面影を追ってしまうのは何故だろう?
それは、『百年の孤独』がそのたった一つの価値観として、孤独な一人語りを続けているからだ。『百年の孤独』には大量の人物が現れて、みな喧(やかま)しくすったもんだしているのに、この作品が述べるのはただ一つの価値観。あなたは独りだということ。だから、『百年の孤独』は、騒がしいけれど、複数の価値観がぶつかり合うようなダイアローグ的な作品ではない。本質的にモノローグ。これこそが『百年の孤独』の本当の孤独。
ただ一つの価値観。ただ一つの孤独。
それを受けとめる、あなたの孤独が試されている。
というわけで、今日はガルシア=マルケス『百年の孤独』を台無し解説してみたよ。
ちゃんと台無しになったかな??
それでは今日のところは御機嫌よう。
また会いに来てね! 次回もお楽しみに!
◇参考文献
ガルシア=マルケス『百年の孤独』(新潮社)
ガルシア=マルケス他『疎外と叛逆』(水声社)
Mario Vargas Llosa『García Márquez: historia de un deicidio』(Alfaguara)
青山南編訳『パリ・レヴュー・インタヴューⅡ』(岩波書店)
種村季弘『魔術的リアリズム』(筑摩書房)
寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』(中央公論新社)
アンヘル・エステバン他『絆と権力』(新潮社)
アレホ・カルペンティエル『この世の王国』(水声社)
M.A.アストゥリアス『グアテマラ伝説集』(岩波書店)
フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(岩波書店)
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