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3曲目、IT'S A NEW ERAを紐解く。

満を持して自信たっぷりにお届けされたシングルが、3曲どれもこれほどのパワーがあるとは、正直思っていなかった。テーマソングで空を見上げたくなる日もあれば、REUNIONが脳に電流を駆け巡らせる日もある。どれも初聴きの感想はいい意味でとっくのとうに薄れているが、特に、聴けば聴くほど愛を感じてしまうのは3曲目のIT'S A NEW ERAだ。

表題曲のテーマソングでもなく、噂のREUNIONでもなく、3曲のラストを飾るIT'S A NEW ERAに掴まれているというのは、自分でも意外な事実だ。意外だったからこそ、聴くたびに感じる事が変わってきたり増えてきたりしている。今回はこの曲について、現時点での想いをたっっっぷり語ろうと思う。


先に言っておきたいが、やっぱりけっこう長いので暇な時に読んでくれるといい。「3曲目」と題しているが残り2曲を同じように書いていくかは、はっきり言って知らん。




―IT'S A NEW ERAの「私」と「あなた」が指すもの

「曲調が違うだけで、IT'S A NEW ERAとテーマソングとは全く同じテーマなので言いたい事は一緒」なのだと、記事で晴一は述べている。それは理解したが、あえてファン目線で自由に解釈してみてもいいかな晴一。


ストレートに背中を押すテーマソングと、壮大な物語を感じさせるIT'S A NEW ERAとは確かに色合いが異なる2曲ではある。

テーマソングの「私」について、リリース前9月6日のカフェイレで晴一は「自分でも説明できない」としながら「僕って感じでもなかったし俺って感じでもなかった」「かといって女性の立場で話してるわけでもない」と話していた。

テーマソングとIT'S A NEW ERAの伝えたい事が全く同じ曲であるという意図を素直に受け止めて一人称を「私」にした理由を考えてみると、「明日に希望があると思って信じていたほうがいい」という世界観で歌詞を書いた晴一は、「私」が持つ広さに賭けているのかもしれない。キャラクターをある程度想像しやすい「僕」や「俺」よりも、「私」のほうが多く「人」を当てはめる事ができ、かつ具体化しづらいからこそ効いているのだろう。

「私」と「私みたいな人」を作り、より共感性を強めたテーマソングに対し、しかし「全く同じテーマ」としながらも、IT’S A NEW ERAの「私」は同じようには当てはめにくい。

IT’S A NEW ERAの「私」とは、彼ら「ポルノグラフィティ」の事ではないだろうか。となれば、二人称の「あなた」とは、「ファン」を指しているように思える。ここで思い浮かぶのはLIVE ON LIVEだが、(この曲はこれまで計3回の音源化あるいは再録をされている、登場回数の少ないレア曲ではある)そこに出てくる「君」と同じ意味合いを私は感じたのだ。LIVE ON LIVEの歌詞における「声にならなくて失速する僕」はポルノグラフィティであり、「切り裂く興奮で呼び戻す君」は我々ファンであると捉えてみる。彼ら自身が何よりファンの存在を信じて愛し、その度奮い立たせている曲でもあるようにも思える。ついでに「LIVE」が何であるかを巡らせてみれば、より一層強く表されている事も感じられるかもしれない。

彼らが「これは間違っているだろうか」と不安を覚えた時、何物にも代えがたい空間で自分たちを肯定してくれるファンの存在があった。


それを踏まえて、IT'S A NEW ERAの2番サビと大サビの詞に注目してみた時、私はまぶたの奥を熱くした。


手を伸ばせば触れられるもの 見つめれば微笑むもの それが真実

明らかなこと あなたのこと確かに感じているの


彼方の空 雲を割って光が差した

間違いじゃない そう言ってくれているのか

挫けそうだよ 笑えないよ 忘れられたいよ

そんな日々はもう 海に返して



自由に解釈しすぎかもしれない。あくまで私個人の印象だ。もっと言えば、いちファンの妄信というかいわゆる都合のいい解釈でもある。だが、そう信じてもいいかもしれないと思えるくらい、ポルノとファンは相思相愛の関係なのであるとここに少し記しておきたい。




―彼らの待つ夜明けと「船」が乗せて運ぶもの

ふと歌詞を書き出してみてハッと一時停止を押していたところが、以下の歌い出しだ。


夜明けを待って さあ船を出そう

目指すのは新世界

私のための場所がそこにある

約束は果たされる


聴いて3回目くらいからだろうか、ここでシスターの歌い出しが思い浮かんだのだ。…だいぶ序盤で思っていた事だな。

そのせいではないが、無意識にこの「さあ船を出そう」は「さあ舟を出そう」と思っていた。しかし歌詞カードを見ると「船」とあったのだ。「舟じゃなくて船なんだ…」と思わず呟き、手元に広辞苑がないので文明の利器に頼りググってみると、「舟」と「船」の違いは以下のようだ。


人や荷物をのせて水上を進む交通機関。ふつう、推進力に動力を用いる大型のものは「船」、手でこぐ小型のものは「舟」と書く。―weblio辞書


まあ、そうだろう。私もおおむねこんな感じで認識している。こんな感じだったからこそ、ハッとしたのである。対して、思い出したシスターの歌い出しの歌詞はこのようになっている。


東の海に舟を浮かべて 誰より早く朝を迎えに

風が便りを運ぶと言うなら 僕に宛てた風は吹いていない


weblio辞書の解釈に倣うなら、シスターの「舟」は「手でこぐ小型のもの」なのだろう。実際MVでも、舫をほどき、暗い海原へ続くであろう水辺へと木製の舟が漕ぎ出されて行くシーンが映されている。

なぜ思い出した曲がシスターなのかというと、ポルノグラフィティを語るにおいて切って離せない曲のひとつであるからだ。シスターとは、今から17年前の2004年にリリースされた曲で、ポルノグラフィティの「再出発」から1枚目のシングルとなった。ベースのTamaさん(現:白玉雅己)が抜け、二人体制として始めるか、あるいはもうここで終わりにするか。葛藤しながらも、再び動き出す事を選んでくれた昭仁と晴一の、ある種生々しい想いが綴られてもいる曲だ。印象的なスネアやギターメロディーなど全体的に物悲しく、しかしどこか幻想的に聴こえる。この時の昭仁の歌声は静かで、それでいてブレスの続かなそうなキリキリとした息苦しさも感じてしまうのだけれど。

本当は、もう走るのをやめたかったのかもしれない。けれど彼らは、それでも前へ進む事を選んだ。待ってくれているファンがいたからだ。

IT'S A NEW ERAで響くドラムには、シスターのような悲哀の音はない。シスターにおいて、彼らが迎えに行く朝は「再出発」の決意を新たにした夜明けだった。今、IT'S A NEW ERAで彼らが待つ夜明けは「新世界」の幕開けなのだ。

この曲は彼らの決意表明ではないか。デビュー23年目を迎えてなお前へ進む、決意の歌なのだと私はそこで感じてしまった。


「再出発」を決めて動き出したポルノグラフィティはその後も活動を続け、17年後の2021年、「新始動」と銘打って再び歯車を回し始めた。その「再出発」をした日と同じ日に「新始動」一発目の曲を出したという事もまた、その思いを強くさせた。23年目を迎えた今の彼らの、大きな覚悟をも感じる歌詞だ。



―今も果たせずにいた約束が、果たされた時

歌い出しで「約束は果たされる」という言葉がある。この言葉、あとは「約束はついに果たされるのさ」とまで書かれたラスサビまで出てこない。頭サビ「起」とラスサビ「結」で書かれたことによってより強い決意を感じられるようになっている。

時に曖昧で儚いもの。互いが「守ろう」「果たそう」と思っていないと、なかった事になってしまう。そうした印象も含む「約束」という言葉を、「果たされる/ついに果たされるのさ」と未来がもう見えているかのように、徐々にクレシェンドで表されていくところに、私は前の記事で「決定的な断定を感じる」と書いた。

歌詞に書きやすく、その使い方によってはアーティストとファンの間の言葉になりやすい言葉のひとつが「約束」であるならば、ポルノは曲中の「君」と、彼ら自身と、そしてファンと、長い年月をかけて約束を果たそうとしてきた。

「夜ごと、君に話してた未来についての言葉は いくつかは本当になって、いくつかはウソになってしまった」ダイアリー00/08/26(2000年)、「夜ごと君に話していた約束は今も果たせず」にいるAGAIN(2015年)、そしてVS(2019年)でも「夜ごと君に話していた約束たち 今も果たせずにいて」、彼らの「約束」はずっと果たされてこなかった。


夜ごと語り合い頷いた日々やその時の「君」の表情は見えなくなり、自分の気持ちも時が経つにつれわからなくなってきていた。読めたはずの地図も、そこに書いてあったはずの言葉も思い出せなくなった。


彼らにとって、「約束」が「果たされないもの」になっているのは、なにも彼らが薄情だからではない。ポルノグラフィティを続けるために「次がある」と、暗黙の了解とともに果たされ続けてきた唯一の「約束」は、出し続けるシングルやアルバム曲、特別な空間のライヴ、ファンと密に交流できるそれらに表れてきた。

こうしてみると、IT'S A NEW ERAで「約束は果たされるのさ」と言い切る事で、ポルノグラフィティの確かな足取りを感じられないだろうか。私たちファンへの言葉と同時に、彼ら自身に向けての言葉のようにも感じられる。

それは新藤晴一がかつて、そして今も言い続けている「ポルノグラフィティを汚したくない」という言葉からも伝わるように、彼ら自身が何よりもまず、母屋であり本家であり、帰ってくる場所としてかけがえのない「ポルノグラフィティ」を大切にし続けているからこそ書ける言葉だ。


彼らは嘘は言わない。もう少し言い方を変えると、彼らの言葉は嘘にはならない。

ポルノグラフィティが、自分自身と、お互いと、そしてファンと交わした「約束」が果たされる時。それは、全てが終わりを迎え、また始まる時だ。先日、全国ツアーの初日を無事終える事ができた。今はまだ迷いながらであっても、彼らが彼らでいられる場所が少しずつ始まったばかりだ。



―フィクションに織り交ぜたノンフィクション

ところで、新藤晴一は作詞において「フィクションとして歌詞を書く」らしいが、急にフィクション色が強くなっていると感じたのが以下の2番Aメロからである。



その国の王は顔を持たぬ者 無数の正義が群がるゴースト

不安は幻想に 影絵の狼のように

本当からの距離が遠ざかるほど闇は巨大になっていく



どこがどうフィクション色かというと、少し絵本のような描写に感じられたのだ。一枚ページをめくると、とある国の王がいて、ゴーストの姿をした正義という名の悪意が無数も彼を取り囲む絵がある。彼はおそらく側近も、自身の妻も信じられないでいるかもしれない。またページをめくると、夜半、床に就こうとするとランプが部屋を照らす影が躍り出す。恐怖におののいて明かりを消せば、窓から差し込む月明かりが今度はその形をとる。狼に姿を変え、昼も夜も、彼は不安と恐怖に食われ続けてしまう―寝る前のお話にしてはいささか不穏ではあるが、この「絵本のような描写」というのはあくまで私の感覚だ。

「本当からの距離が遠ざかるほど闇は巨大になってく」にも映像が浮かぶ。「本当」というのが「真実」なのか「事実」なのか、「嘘ではない」のか、いろいろと内包されてもいるだろうが、確かな事はそれは「光」だ。それが見えなくなるほどに、「影絵の狼」は集まり巨大な「闇」へ。ここから先はサビめがけて一気に音が拓けていき、隠された「光」が目の前を照らす。「王」は「幻想だった不安」から醒め、抜け出していったようにも思わせる。ドラマチックな勢いを再び増し、勢いよく2サビが歌われていく。


「不安」とは、その多くが目に見えないものだ。「不安」と感じるものや出来事あるいは人から感じる、一概にダメだとは言えないができれば抱きたくない感情である。この誰もが感じるメジャーな感情である「不安」というものを、新藤晴一という人は決して否定しない。

ポルノの曲にこの胸を、愛を射よというバラード曲があるが、その歌詞にある「狼の群れ」の「狼」とはまた似て非なるものかもしれない。取り囲まれると身がすくんでしまうのは同じだが、違うのは、それが「影絵」であるとした事で、自らで抜け出せるものとして描かれてもいるという事。「不安」は「幻想」のように覚束ないものだが、同時に「影絵の狼」のように可視化された恐怖でもあるからだ。特にこのコロナ禍、見えなかったあるいは見てこなかった恐怖まで見えていってしまう。

時世に沿いつつ、曲を手にする人に向けたエールを込めたのだろうという点は、歌詞を見ても曲を聴いても非常によく感じられる。「矛盾のランプ」や「迫り来る荒波」も、「この薄暗い世界を照らすには足りないが希望の光」であり、「自分一人では超えられないいくつもの危機」だ。

しかし同時に、その傍ら、自身のその時の感情(ノンフィクション)を知らず知らず載せながらフィクションとして昇華させていっているかもしれない。そうして晴一自身もまた、己と向き合ってきたのだろう。創作活動において当然混じってくる、自身の想いや伝えたい事、その時に受けた影響などが、引用した歌詞には(そしてこの曲全体にも)表されてもいるように思う。気のせいかもしれないが。



―壮大さの中にある「本当に伝えたい事」

IT’S A NEW ERAの大サビでは、大サビらしくガラリと色が変わる。この始終壮大さを感じさせる曲は、ここで舞台の場面転換を表してもいそうだ。より壮大に捉えるならば、岡野昭仁がスポットライトの浴びる舞台上で、演劇さながらに歌い上げる姿や、キャスト陣が後方や隣で手を叩き足踏みして舞台を鳴らす動きが見えるかもしれない。

「より壮大に捉えるなら」の話で、そこまでせずにもう少し縮めさせてみれば、冒頭で述べた晴一の言葉を再び用いると「明日に希望があると思って信じていたほうがいい」という思いで書いたテーマソングと同じテーマである事に立ち返ってみれば、これほどシンプルな願いと決意もないだろう。

私が思っている事だが、曲の大サビにはおそらく、本当に言いたいことが詰まっているものなのかもしれない。IT'S A NEW ERAにおいては、まだ歓声を出す事のできないこの時世において、手を叩き足を鳴らす音は「私」である彼らとファンの「希望」であり、「まぎれもない祝福の音」だ。このコロナの「闇」が明けた暁。その夜明けを待って、船を出す。目指す新世界は「私のための場所」、それはポルノグラフィティがポルノグラフィティとして生きていける場所でもあり、私たちが出会える特別な空間なのだ。

かつての日々は、「新世界」を目指し進んでいく海の下へ。ポルノグラフィティと私たちは、決意の旗をたなびかせながら「新世界」へ漕ぎ出すのだ。

そして、ラスサビからまるで走り出したかのようにテンポが速くなり、裏拍を取ってタンバリンが鳴り響く。目指すべき場所を見定め迷いのないスタートを切る。

それは、以前と形は違う事になっても、失われて初めて気づいた当たり前を取り戻し、日常を再び生きる船出だった。もしかしたら同様に失われかけたかもしれない、ポルノグラフィティとファンとの絆をまた手繰り寄せていくために。





おわりに

今回、配信ではなくCDとして新曲がリリースされた事は非常に喜ばしい事だなと改めて感じている。なぜならば、そこには確かに作り手の想いがあり意思があり、願いがある。配信もCDも、曲が世に出る事には変わりないのだろうが、それでも「たくさんの人に聴いてもらいたい」「長く愛される曲になってほしい」と彼らが口にするように、目に見える実感として肌に触れる事ができるという点ではやはりCDという重みは特別なものに感じてしまう。

そしてもうひとつ。歌詞カードの重要性がある。ペラ1枚だろうと紛れもなく文庫本のページ数に匹敵する(と私は思っている)それを開いて手触りを少し堪能したのち、紙のにおいを嗅いだら軽く目眩がしたのは全くの余談だが、つまり何が言いたいかといえば、みなさんも、歌詞カードあってこそのCDであると改めて感動しなかったろうか。

歌詞カードを見ようが見まいが、聴いていくうちにその曲に対してまた新たな感じ方ができるというのも、曲の楽しみ方のひとつだ。横から斜め上から真上から下からといろいろな角度から見てみたくなる。たとえば大サビなんて、当初はメロディーと歌声の転換にグッと惹き込まれた上に、まず自分自身に重ねて聴いて涙していたのに、いつの間にかより深く感じる事になっていた。


そして改めて思うのが、岡野昭仁のすごさだ。テーマソングも、REUNIONも、IT'S A NEW ERAもボーカル一人で歌う曲ではない。複数人でユニゾンしAメロBメロとパート分けして響かせるような曲だ。それを岡野昭仁は声色を使い分け、たった一人で歌い上げている。一人で何役できるんだ。劇団四季か。

あの充電期間で、昭仁も晴一もそれぞれ吸収し磨き上げ、満を持して昭仁に至っては自身初となる配信ソロライヴ「DISPATCHERS」でカバーした曲、学んだもの、得た事の全てを「必ずポルノグラフィティに還元します」というギョッとする宣言をした直後、今回の51枚目シングルでそれを魅せた。カービィか。否、しかしそれはコピーではない。正真正銘、唯一無二の力をつけた証なのだ。

全く新しいポルノグラフィティをまた見せてくれ、そしてより好きにさせてくれたのは、彼らが「新始動」の歯車を動かす決意をしてくれたからにほかならない。「ファンあってこそのわしら」と彼らは言ってくれているが、ポルノグラフィティが足を止めてしまったら、ファンは何もできないのだ。

もちろん、時に休んでもいい。ここまで走り続けてくれたのだ、活動のペースを少し落としてもファンは待ってくれる。現に、「普通なら見捨てられてもおかしくないくらいに間が空いてしまったのに」と昭仁がこぼした時も、「そんな事はない!」と全ファンは首を激しく横に振ったはずだ。20周年ドームライヴを終えたら充電期間を設けるつもりでいた事を知った時はホッとしたものだが、ファンが知っている限り、そして先にも述べたように「もう終わりにしてしまおうか」と明言されたのは一度、メンバーが脱退した時だった。(公表された限りでは)大きな病気や怪我もなく、活動休止を余儀なくされる不祥事もなく、さらにはこの未曾有の事態に完全に挫ける事もないまま、音楽を届け希望の光を差す事を模索し続けてくれた。

長ったらしい自分の解釈と考察をぶっかけてしまうくらい、「新始動」を切ったポルノグラフィティの新曲にやられるのも、何もおかしな事ではないだろう。


いつかこの「夜」が明けたら、きっと「約束は果たされる」。その決意と覚悟を、歌詞にできて、歌える時まできたのだ。


夜明けを待って さあ船を出そう

目指すのは新世界

私のための場所がそこにある

約束はついに果たされるのさ


IT’S A NEW ERA








なっが。読んでくれて本当にありがとう。目を休めてくれ。



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