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ほら その胸は震えているか?〜初聴きの感想編〜

デビュー22周年を迎えた9月8日、時計の針が頂点を迎えたその瞬間、各音楽配信サイトで、22日にリリースされるポルノグラフィティの新曲から表題曲の「テーマソング」が先行配信された(同時に周年祝いのツイートが大量に溢れてTwitterが重くなった話は最初の記事で話している)。

この新曲、実はそれより前の8月23日に、新藤晴一がパーソナリティーを務めるラジオ「カフェイン11」(通称・カフェイレ)にて、「宇宙一早くオンエア」されている。その時がリアルな初聴きであり、あまりにも遅いが今回はそれについての感想を改めて書き記しておきたい。

他のリスナーに漏れず、私も心臓が口から出そうだった。しかも私にとっては、彼らに再会してから初めての新曲である。思ったよりも早くやってきた胸躍らせる事実。しかも恒例であろう「宇宙一早く解禁」を経験できる。その日、コンビニに寄って何年振りかに酒を買って帰るという珍事を成し遂げたが、正直胸が躍りすぎな感は否めない。だがそれ程、緊張していた。


そうして聴いた新曲、タイトルは「テーマソング」という。ラジオ収録当時ではまさかの未完成状態であったため、別撮りした「未来の晴一」のほうから曲振りがなされた。


自分自身、応援歌というものは苦手だったんだけれど、やっぱり、明日に希望があるかどうかは知らないが、あると思っていたほうがいいかなと。希望があると信じていたほうがいいなと。

そういう世界観を描いた曲になっております」


曲を聴く際に「メロディー重視か?歌詞重視か?」といわれれば、私はいつも、詞よりもメロディーを重視して曲を楽しむタイプだ。初聴きであっても歌詞を重視しない。というかできない。

だが、今回に至っては、初聴きで歌詞が聞き取れる(歌詞として入ってくる)レアケースだ。そのおかげか、このテーマソング、まっすぐに胸に響いた。それは決して、滑舌の良い昭仁の歌声のおかげではないだろう。


なぜこんなにも胸に響くのか。この新曲がここまで胸に響く理由は何だ。

もちろん、新藤晴一の書く歌詞の一言一言の意味を咀嚼し、かつ自身の想いも載せて歌う岡野昭仁という絶対的な歌い手が発するメッセージというものに、響かないわけがないのだが、それだけが理由ではない気がした。

微力ながら、これを読んだあなたに、ポルノグラフィティのテーマソングが響いてくれたらいいとも思う。


※歌詞は23日時点の聞き取りのものであり、漢字や感嘆符などは正しい歌詞表記とは異なっている。この記事を書き上げた時点で、すでに正しい歌詞表記はわかっているが、あえてそのままの表記にしておきたい。




1.マクロとミクロの視点

ひとつに、曲振りした晴一が言うように「明日に希望があるかどうか」という事。

まずこの言葉で思い浮かぶのが、今なお収まる気配のないコロナに苦しめられている私たちだ。疲弊しない人などいないだろうというこの未曾有の事態。文字通り「明日に希望がある」などと思える事など、平素よりも格段に少なくなった。日々更新される感染者数、目を覆いたくなるような惨状を伝えるニュース、医療従事者の叫び、浮き彫りになる暮らしの格差、後ろ指をさされるエンタメ界……今こうしている間も、見えない場所で「まさか」という永遠の別れも繰り返されている。日常の過ごし方に「正しさ」が求められ、楽しむとは、生きるとは何かという事まで誇張でなく問われ続けている。

マクロの視点で言えば、そうした「コロナ禍における人々への応援歌」と取れる。当然、その意味も込めてこの曲は作られてもいるだろう。

と同時に、この時聞き取ったサビの歌詞に注目できる。正直、ここが一番かもしれないくらいに胸に響いたのだが、それがこれだ。


「壮大なテーマソング 流れりゃその気にもなるかな?

耳に届く音はいつも不安な鼓動のドラムだけ

フレー!フレー!この私よ そしてフレー!私みたいな人」


すなわち、「私」と「私みたいな人」というもう少しミクロの視点でも、同時に響かせている「応援歌」とも取れるだろう。

これは以下の大サビの歌詞から、もう少し詳しく感じられる。


「諦め 苛立ち 限界 現実
飲み込み過ぎて喉が渇く」


「現実」は「現状」であり、同時に「諦め 苛立ち 限界」を可視化させる。しょうがないと自分をどうにか説得し、ただ折れるしかない。「フレー!フレー!この私よ」と「私」は鼓舞しながら、「そしてフレー!私みたいな人」と、自分以外の「私」も応援する。これは決して、この「私」が優しいからというだけではないだろう。

こんな時でなくても、「私」自身が持つ「諦め 苛立ち 限界」を飲み込み、突き付けられる「現実」をもがき苦しむ「私みたいな人」はたくさんいると知っているのだ。人は基本的にはひとりだ。だが、「一人」ではない。そしてまた「独り」でもない。この曲中の「私」とは、それは、同時に「僕」でもあり「君」でもあるのだ。

「耳に届く音はいつも不安な鼓動のドラムだけ」、でも、「フレー!フレー!この私よ」「そしてフレー!私みたいな人」。これは、「私」がどうにか届けたい「フレー!フレー!」なのだ。


だが、これは一方で「らしくない」。何が「らしくない」かというと、それは、新藤晴一という人の作詞スタイルと、「応援歌」というものに対しての捉え方に関わってくる。


2. 新藤晴一の思う「応援歌」

ポルノグラフィティの新藤晴一という人は、作詞において「愛してる」や「頑張れ」などの直接的な言葉で表さない事でファンの間では有名だ。そのため、強く腕を掴んで立たされるよりも、気が付いたら背中がほのかに温かくなって、折れた膝に力が入り始めるような、そんな歌詞を書く。加えて、卓越した言語センスは過度に装飾される事も足りなすぎる事もなく、絶妙なラインで曲を彩り、聴き手に沁み込ませる。

彼自身、自分たちは「いつでも歌を届けられる側」「有名になり輝いているとされる側」である事を常に意識しているはずだ。「そんな自分たちが、大衆に届ける『応援歌』を作ってもあまり響かないだろうし、そもそも安易な励ましは、悩みの渦中にある人には届きづらい」と、そういうふうに晴一個人は考えているのだろう。ゆえに彼は安易に「応援歌」を書かない。

それは晴一自身が、言葉そのものが持つ力を熟知し、「誰が発したか」によってさらに発揮する力があるという事をも、身をもって感じているからだろう。だからこそそんな自分たちが届ける音楽や言葉は、青臭くとも真摯で、嘘のないものでありたい。私は、そうした想いを彼から感じるのだが。


そんな彼が「フレー!フレー!」という直接的な表現を使っている。


そしてもうひとつ、新藤晴一は作詞において「簡単に答えを教えない」。

答えの入った引き出しを簡単に開けられる鍵を渡さないし、あるいは彼自身も持っていないから渡せない。ヒントを散りばめ、時に示し、自分の頭で考え行動する力を改めて芽生えさせてくれる書き方をする。そこに、私は晴一の優しさを感じている。このテーマソングにおいても彼は最後まで、「私」と「私みたいな人」の力を信じているのだ。

先述したサビの歌詞にもそれが表れているようにも思う。「壮大なテーマソング」が、立ち止まりそうな自分の中に流れたらまた歩いていけそうになるかもしれない。だからこの場合、例えば「壮大なテーマソング 流れたらまた歩き出そう」などと続くのがよくある応援歌だ。しかしこのテーマソングにおいて、「壮大なテーマソング 流れりゃその気にもなるかな?」と「私」は問いかけている。定型文にならず、安易な前向きさに頼らないのが新藤晴一のすごいところだ。


そんな彼が「フレー!フレー!」という直接的な言葉を使っている。


らしくない。しかし先にも述べたように、誰もが不安に追い込まれる現代だ。「希望があると信じていたほうがいいな」と晴一が言ったように、「あると信じる」事も、時にはかすかな光となる事がある。「私」がどうにか届けたい「フレー!フレー!」であると同時に、新藤晴一がどうにかして届けたい「フレー!フレー!」は、彼のこれまでの作詞スタイルを覆す程の強い願いを持ち、新曲を「応援歌」として届ける事になった。いてもたってもいられず、飾る事なくそのまま伝えたい気持ちの表れだったのかもしれない。


3. 令和の音楽を取り入れた強さ


「ほら 見上げれば空があって 泣きたくなるほどの青さ

ほら 雲のような白いスニーカーで 高く高く昇ってゆけ」


強く叩いて響くドラム音に続き、聴こえた昭仁の歌声から、テーマソングの歌い出しは上記のようになっているようだ。「泣きたくなるほどの青さ」が広がる空を「雲のような白いスニーカーで」駆け上がるイメージは、昭仁のぐんぐん高まっていく澄んだ歌声と、煌めいたロングトーンとともに、より爽やかな映像で脳内に浮かぶ。加わる手拍子、ストリングス。ステップを踏むようなメロディー。

そう、「爽やか」なのだ。


「応援歌」にイメージの合う曲調といえばいろいろあるが、「爽やかさ」もそこにあるだろう。とはいえ、ポルノグラフィティに「爽やか」のイメージも当てられたのはここ最近のように思う。そして晴一が「応援歌というものは苦手だった」とするように、こちらが「応援歌」と受け取っていてもポルノ側から「これは応援歌です」と発信した曲は少なかった。恐らく。

そのためこのテーマソングを聴いた時、メロディーから連想したのは、最近聴いたポカリのCMソングだ。パクリなどという安直な印象ではなく、しかし「似ている」と感じたのは、令和の時代の音楽カラーを入れた「今っぽさ」を取り入れた点にあるのではないだろうか。音楽に全く詳しくないので、専門的な事は何ひとつ言えないが。

彼らがこれまで世に出してきた曲は、途中から「ポルノっぽさ」と「ポルノっぽくなさ」を織り交ぜ、配分を絶妙に変えてきている。そしてここにきて「応援歌」でありながら「今っぽさ」を取り入れた、耳から取っ付きやすさを印象付ける曲を作り聴かせた。

少なくとも私が聴いてきた限りでは、例を見ない「爽やかさ」だ。ポカリスエットのCMソングに流れていても違和感ないと思った人は、私の他に多くいるはずだと信じている。確かに、彼らは20年程前サウダージをはじめ、ミュージック・アワーやハネウマライダーで大塚製薬商品の売り上げに一役買ってきた。私も1年前までは、ハネウマライダーを聴くと脳内で制服姿の綾瀬はるかが走り出すか、白いTシャツ姿で巨大手作りトランポリンの上を跳ね飛ぶ綾瀬はるかが浮かんでいたものだ。

もしかしたら15〜20年の時を超えて、大塚製薬から何度目かの依頼が来てもおかしくないのでは……と一瞬思いかけたが、これは長年国民に愛され続けている清涼飲料水のためではなく、「私」と「私みたいな人」のテーマソングなのだ。申し訳ないが依頼は来ないでほしいし来たとしても断ってほしいという願いをそっとここに記しておく。




「宇宙一早くオンエア」の23日当日はリリース前なため、最後まで聴かせることはないが、ほぼ丸々聴かせてくれたようなものだった。もはやアウトロ間近で談笑する二人の声すら邪魔にならない。しかしその声の裏でまだ流れる曲から何とか歌詞を聞き取ったところ、昭仁の声で、この言葉で終わったのだ。

「ほら その胸は震えているか?」


大サビでも使われたこのフレーズを、もう一度昭仁が問いかける。


「ほら その胸は震えているか?」


何に呼応して私の胸は震えるだろう。感動で震えるのか、文字通りの鼓動を感じるのか――どんな形であれとにかくそれは、生きているからできる事だ。

明日に希望がなくても、未来に展望がなくても、みっともなかろうが情けなくてたまらなかろうが。感じる事で震えるその胸は、生きていなければあり得ないのだ。


時世が輪をかけて誰もが意味を失う今、問いかけ続けるという事。そして捨てきれない不安に怯え悩み苦しむ「私」や「私みたいな人」に、まっすぐな「フレー!フレー!」を届けながら、今のポルノグラフィティはあえて問いかける。




ほら その胸は震えているか?







ここからは余談なのだが、「久しぶり、2年振りかな?ポルノグラフィティのニューシングル」という晴一の言葉に、リアルタイムで視聴していて目の奥が熱くなった。「2年振りの新曲……1年前、あなたたちに再会してよかったよ……」と、しかし胸に手を当てる余裕もなく、イントロのドラムが始まったのだから緊張はピークに達してそこから先は覚えてない。ただただ震えた胸のまま、放送後あふれる気持ちをTwitterに打ちまくった後、深夜にも程がある時間に、買ってきた酒を開けて一人で宴を催した。


おいしかったけど、正直言って、隣にいる誰かと分かち合いたかった。一人じゃ足りねぇよ。


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