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ハイファに戻って ー 1948年5月からイスラエル領、イスラエル建国前はパレスチナだったハイファの街、1983年10月4日の訪問記

先月11日、2019年9月11日に note に新規登録し、これまで 911 アメリカ同時多発テロに関わる 3本、「ボブ・ディランの不都合な真実」(パレスチナ・イスラエル問題に絡むもの)についての 2本を、投稿してきました。とりわけ後者についてはまだ続編の投稿を予定していますが、今日は 1983年4月から 1984年2月にかけての海外貧乏旅行の際の 9月から10月にかけて 3週間ほど旅したパレスチナ、イスラエル、その中で今日からほぼ36年前に当たる 1983年10月4日にハイファを訪れた時の日記を、ここに転載します。

当時、ユーラシア大陸ほぼ(細かい!! さらに細かいことを言い出すとアフリカ大陸にあるエジプトにも行きましたが)一周旅行中に毎日書いていた日記を、故あって昨日、おそらくは35年ぶりぐらいに取り出し、少し捲ってみました。異国の街を歩き回り、疲れて安宿に戻りながら、今の自分が想像する以上に、当時の自分は毎日自分が見たもの、会った人、会った人と話した内容について、こと細かく記録していました。以下には、1983年10月4日の日記を載せます。

因みに、今日の投稿のタイトルの冒頭に記した「ハイファに戻って」については、もちろん物理的な意味で私がこの度「ハイファに戻っ」たということではなく、それは自分の思考・想像の中で「ハイファに戻っ」てみたことを意味しています。

同時にこの言葉は、1936年にパレスチナで生まれ、1948年のイスラエル建国によって家族とともに難民となり、その後、1972年にレバノン、ベイルートでイスラエルの秘密諜報機関モサドによって暗殺されたパレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニの著書のタイトル、「ハイファに戻って」を借用したものです。

また、今回の投稿に使った写真は、1983年10月4日に私がご本人の許可を得て撮った、ハイファの街をまるで「あてどもなく」歩いているように見えたパレスチナ人の老人の写真で、彼のことについても、以下の日記の中で書いています。

なお、疲れて帰ったホテルの部屋で書いた日記であって、全く推敲していないものを、ほぼ一字一句転載しています。「ほぼ」というのは、英語を交えて書いた部分を読みにくくなるので日本語のみにしたり、あるいはパレスチナやイスラエルについては詳しくない方の為に注釈を入れたりしている為です。

1983年10月4日(火)

朝、師匠と別れ(注: 「師匠」というのはシリアのダマスカスで会い、そこからヨルダンのアンマン、アカバ、ペトラ、そしてイスラエルによるパレスチナ占領地の一つであるヨルダン川西岸地区、東エルサレムまで宿、旅を共にした日本人写真家、松本さんのことで、「日本で会おう」と言い合って別れました)、Jaffa Gate 前よりバスで Central Bus Station へ。ハイファ Haifa 行きはわりとあった。

ハイファへ(学割で 145シュケル shekel だった)(注: イスラエルの通貨シュケルについては *1)。俺の乗ったのは(注: 1972年に日本赤軍による乱射事件があった)ベン・グリオン空港を経由したが、その手前で、兵士のチェックがあった(と言っても一人の兵士が乗り込んできて、一通り乗客の顔を見ただけだったが)。パレスチナはやはり中東にしては緑が豊か。シリア、ヨルダンとは全く違う自然がある。

Egged Bus Terminal に着き、「オデッセイ」(注: 貧乏旅行者用のガイドブックの一つ)に載ってたホテルのある地域へバスで行く。

☆なしホテルのあるはずのところへ行ったら、ホテルでなくお店があって、そこのおばちゃん曰く「ミステリーだ。I've been here for many years」。もう一つの☆なしホテルは何と close, 仕方なく声をかけてくれたカップルの教えてくれたホテルへ行くと、一泊 950シュケル。おまけに「他に安いところ無し」と言われる。

次は「オデッセイ」の☆ホテルへ行ってみたが、これもその住所にない。「オデッセイ」のイスラエル版はかなりいい加減(街の説明で、インフォメーションでくれた地図の文の訳が載ってたりもする)。

結局、一泊 950 シュケル(のホテル)にした(注: もちろん、この海外貧乏旅行中に泊ったホテルの中では飛び切り高い部類のホテルになってしまいました)。道を尋ねて教えてくれた老婦人といい、声をかけてくれたカップルといい、大変親切だった(注: たまたまですが、この人たちはユダヤ系イスラエル人だったと思います。ハイファだけでなくイスラエルには少数派ながらアラブ系イスラエル人もいます)。

Egged Bus Terminal からのバスの中から、ハッタ(注: ハッタというのはクフィーヤ Kufiya のベドウィン方言)を被ったおじさんを二人ほど見た。すなわち、パレスチナ人 Palestinian だ。標識なども、わりとアラビア語併記がある。

夕方近くなって、地図に載っている、海に近いモスクを目指した。パレスチナ人に会える気がしたのだ。

しかし、そのモスクは閉まっていて、もう使われていないふうだった。近くに他にも壊れたモスク(ルーイン of モスク)(注: なぜか英語カタカナ表記が括弧書きしてあった、つまり ruin of mosque)、モスクの跡というべきか、2つほど見た。ミナレット Minaret があって、よく分かる。お椀型のドームも。(1つはミナレットのみ)。その辺り、崩れかけてもう使われてない建物がいくつかある。

明らかにアラブ人と分かる顔をした人たちを見た。アラブ人(つまりここではパレスチナ人)経営と思われる理髪店も見た。お客さんも皆アラブ人風だった。アラビア語文字もわりと見た。

....................... (注: 下記の 5段落は、この投稿に使った写真の老人について)

ハターハ(ハッタ)を被った人を見た。おじいさんだった。彼はどこかあてどもなく歩いている感じだった。静かにすーっと歩いている。バーのようなところに入って、すぐ出てきて、また歩き出す。追いかけて行って、カメラを見せて take picture? と言うと、彼は黙って立ち止まった。暗いのでこちらに移ってとジェスチャーで言うと、また黙って動いて、立ち止まった。

2枚撮った。撮り終わると、彼はまたすーっと歩き出した。気になったので、しばらくして追いかけ、「おじさん、マッサラーミ(注: マッサラーマ, Massalam, アラビア語で「さようなら」)、アッサラーム・アレイクム(注: As-salamu alaykum, イスラム圏の挨拶)」と言ってみたが、彼は何か呟くのみだった。

「フィラスティーン(注: Filastin, アラビア語で「パレスチナ」)?  .. アイワ(注: aiwa, アラビア語での相槌 yes のような意味)?」と訊くと、微かに頷いたようだった。

You? と訊かれたので、「ヤバーニ(注: Yabani, アラビア語で「日本人」)」と言うと、「ヤバーニ」と彼も呟いた。

追い越して「マッサラーミ」と言って手を挙げると、彼は歩きながらこちらに手を挙げて挨拶した。

.......................

帰り、他にも一人、ハターハ(ハッタ)のおじさんを見た(彼は元気そうだった)。

また、シナゴーグ(注: Synagogue, ユダヤ教の会堂)らしきものも見た(小さかったが、中でユダヤ人が本 ー たぶん旧約聖書 ー を持って祈ってた)。

ここに住むパレスチナ人がどんな生活をしているのか、むろん分からない。何人ぐらいいるのかも分からない。

しかし、たとえ彼らがユダヤ人と法的に同等ということになっていても、ここ(注: ハイファ)は「ユダヤ人の国イスラエル」が占領してる場所。しかも West Bank(注: ヨルダン川西岸地区)と違い、まわりは圧倒的にイスラエリ(注: Israeli イスラエル人, イスラエルの)・ユダヤ人。彼ら(パレスチナ人)が日の当たるところで暮らせてるとは思えない。

当然のように、ユダヤ人が日常生活を送っている。もちろん、ここにも幸せな「ユダヤ人家庭」があるだろう。もう35年、イスラエル建国から35年経ってしまっている。

ハイファは港街。わりと静かな感じの「いい」街だ。

アラブ人(パレスチナ人)をわりと見た辺りで、アラビックの歌が流れてた。「オデッセイ」によると、ラジオでアラビア語局が独立して 1局あるとのこと、それだろうか。

ホテルは Eden Hotel, Hehalutz street にある。

アラブ人(パレスチナ人)をわりと見たところは、Town Hall の横を右へ行って、海へ向かって下りていった Wadi Zalib (Wadi Salib?) 地区。

ホテルのわりと近くに、バルフォア・ストリートなんてのがある(注: バルフォアというのは、明らかに、パレスチナ人や私のようなパレスチナ人の人権や帰還権を支援するものの間で悪名高き、1917年の Balfour Declaration もしくはその立役者である、当時のイギリスの外務大臣 Arthur Balfour を指しています)。

地図によると、シオニズム・アベニュー (Zionism Avenue!!)なんてのもある。そう言えば、ベン・グリオン空港なんてのもあるからなぁ(注: イスラエル最大の国際線空港ですが、空港名はポーランドのプロニスク生まれ、シオニストの一グループのリーダー、1948年建国のイスラエルの初代首相ダヴィド・ベン=グリオンの名に由来します)。

地図によれば、ハイファには、非合法移民の museum がある。

*1 しょうじ(注: 大学時代の友人と思われますが、彼もパレスチナ・イスラエルの旅経験者だったかどうか、はっきりした記憶はないから、旅行中にトルコ・イスタンブール辺りで知り合った別人かもしれません)のとき、1シュケル = 6円。今は 4円。約半年で通貨価値が約 2/3 になってしまっている。インフレ率は 100% 超えてるとか。どうして経済的に破綻してしまわないのか。しかも税の 90% が軍にいくというのに。ねぇ、アメリカ合州国さんよ。

*2 (注: この部分はハイファでなく、10月2日に見物した死海について)「オデッセイ」によると、死海は湖面が海面下 390m 以下、四方から川が流れ込み、どこからも流れ出ず、水はそこで蒸発、塩分の強い水が溜まってるとのこと。東岸はヨルダン、西岸が West Bank.

*3 ハイファでも、UN(国連)の車を見た。

*4 ハイファでも、銃を持った兵隊さんを見る(注: もちろんイスラエル軍)。レバノンからのお帰りか?

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(注: ここで突如、以下、大きな文字で殴り書き)

ああ! 疲れる!
Heavy だ!
ここ パレスチナ にいると 精神的にまいってしまいそうだ。
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*5 (注: この部分はハイファでなく、エルサレムでの見聞、思い出しメモ)エルサレムで最初泊った Swedish YH にあったヘブライ語の新聞の見出しに「ユダヤ人のヘブロン」があった(注: ヘブライ語の新聞だから、その見出しだけ英語表記だった為に意味が分かったのか、あるいは誰かヘブライ語が分かる人間から教えてもらったのかもしれない。ヘブロンとは、イスラエルが1967年以来「国連安保理決議」に違反して占領し続けるヨルダン川西岸地区にあるパレスチナ人の街の一つで、1週間後の10月11日に私も訪れています)。軍への投石に反対する(!) デモの記事も(もちろんユダヤ人のデモ)(注: 軍への投石とは当然ながら占領軍であるイスラエル軍への投石で、投石しているのはこれまた当然ながら被占領側のパレスチナ人)。

*6 (注: 再びハイファについてのメモ)地図にいくつかモスクが記されている以上、使われているのもあるかもしれない。しかし、とにかく一つは閉まっている。

.................... この日の日記はここで終わっています。 .......................

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