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イラン ・イスラム革命から 4年、1983年11月のイラン 〜 その1 : 締めは Holger Czukay "Persian Love"

上に掲げた写真は、1983年11月16日にイランの首都テヘランの街をぶらつき、路地裏でばったり会った可愛い可愛い子供たちを撮った一コマ。

1983年4月26日に横浜港からのフェリーでバックパックひとつ背負って日本を発ち、その後、2泊3日の船旅でロシアのナホトカに着いた私は、ハバロフスクまでの列車とハバロフスクからのシベリア鉄道の列車により当時のソビエト連邦を旅し、さらに 2ヶ月間有効のユーレイル・パスを使って、フィンランドからギリシャまで縦断してヨーロッパ諸国を旅した。ギリシャではアテネとエーゲ海の島サントリーニに合わせて 1ヶ月間滞在し、同年 8月9日午後11時アテネ発の列車に乗り、2泊3日の列車の旅の後、8月11日朝、トルコのイスタンブールに着いた。そこからが 36年前の中東諸国の旅の始まり。

その後は、トルコ、シリア、ヨルダン、パレスチナとイスラエル、エジプトを旅し、日本を発ってからちょうど半年経過していた同年10月26日にその旅で初めて飛行機を使って移動、エジプトのカイロを発った私は、同日中に再びトルコのイスタンブールに着いた。最初の滞在で 3週間ほど居たイスタンブールは居心地が良く、ここであらためて 2週間滞在、その後はトルコの首都アンカラに移動して 3日間滞在した後、11月12日にはトルコの最東端の街、御伽噺(別名「聖書」)の「ノアの方舟」で有名なアララト山が見えるドグバヤジッドに到着。そのドグバヤジッドを11月15日の朝に発ち、日本・ソ連の間、エジプト・トルコ間を除く他の諸国間同様に陸路で国境を越え、11月16日の朝 8時ごろ、バスでイラン の首都テヘランに着いた。

前説が長いな、ここからようやくイラン の話。この時のイラン は既にイラン・イスラム共和国。いわゆるイラン ・イスラム革命(1978年1月7日 - 1979年2月11日)の成就から、4年と 9ヶ月と 5日が経過していた。

さて、勿体ぶってここまで書いてきた 1983年11月のイラン・イスラム共和国の話。あと 2, 3回これについて投稿を重ねることにして、今回の投稿は、次の段からこの話の「さわり」の部分を書いて、終わることとしたいと思う。過去の文化庁の「国語に関する世論調査」などでも示されている通り、この「さわり」という言葉、実際に広く誤用されているようだけれども、その意味は「最初の部分」というようなことではなく、要点もしくは印象深い部分といったところか。というわけで、この 1983年11月のイラン 噺の要点を書くことにする。と結局はまた勿体ぶった(笑)。

イスラム革命から 4年と 9ヶ月が経過した1983年11月のイラン。今も印象に残っていることは 3つ, 4つ、もしくは 5つ程度。

テヘランでは街の中心部の多くのビルの窓が、高層階に至るまで、イスラム革命の指導者アヤトラ・ホメイニの肖像(写真もしくは絵もあったかな)で埋め尽くされていた。アヤトラ・ホメイニとは、勿論あのイスラム革命の指導者、イラン・イスラム共和国の初代元首「最高指導者」であった Ayatollah Khomeini (1902年9月24日 - 1989年6月3日)。

とりわけテヘランでは、街を歩く大人の女性は全身黒ずくめのチャドルを着た人が圧倒的多数。一部の厳格なイスラム教徒(イランの場合はシーア派)にはそれでいいのだろうが、そもそもこういう物言いを不謹慎に感じる信者も少なくないのだろうが、あのコスチュームでは眼とせいぜい鼻程度しか見えず(厳密には口が見えたりするケースは多いのだろうが)、せっかくのペルシャ美人も容姿がよく分からない。それでもどういうわけか、街ゆく女性たちの美しい眼だけは印象深く記憶に残った。

イスラム革命の成就から 4年半以上の時間が経ち、革命直後の熱気も冷めてきていた、そんな背景ももしかしたらあったのかもしれないが、自分には宗教革命によってイスラム神政国家となったイランのその政治体制によるところが大きいのではとも感じられたものだ。つまり、要するに、イラン・イスラム共和国の首都テヘランの雰囲気は、街を歩く人々といい、通りの雰囲気といい、とにかく街全体が醸し出す雰囲気が、私が同じ年に訪れた他の中東諸国の大きな都市、イスタンブール、ダマスカス、アンマン、エルサレム、カイロなどと異なっており、一言で言って「暗かった」。

人口規模でイラン 第3の都市、美しいモスクがある歴史的な街エスファハンで、たまたま知り合った同年代のイラン人男性に彼の家に招待され、ご馳走になったが、歓談の相手をしてくれたのは彼の他、父親や男兄弟など男性のみ。親切なイラン 人一家のお世話になったひとときだったが、料理を作ってくれた彼の奥さんやお母さん、その他おそらく家にいたであろう姉妹など、家族の中の女性はずっと台所に篭っていて、最後まで出て来なかった。見えたのは、夫もしくは息子である彼に料理を手渡すときに台所からスッと出てきた手、もしくは腕のみ。細かいことを言ってしまえば、腕の、それも肘から下の部分のみといったところか。

イラン ではテヘラン、エスファハンの他、次のパキスタンに行く前に東部の街、ザへダンにも滞在した。テヘランを中心としたイランの西部と、それに対してテヘランから徐々に離れていく東部。だいぶ様子が違っていた。つまり、イスラム革命からまだ 5年も経っていなかった当時のことなのだが、ザへダンでは、少なくとも外国人旅行者に対しては当時の「イラン・イスラム革命」体制下の社会、政治や人々の暮らしに関して率直に自分の考えを言う人間が、決して少なくなかったのだ。単純に言えば、オカミをはっきりと悪く言う人が少なからずいた。あれは予想外のことだった。

さて、長い前置きの後に「さわり」を書いて終える今回の 1983年秋イラン噺。最後に私の大好きな曲、ドイツのミュージシャン、Holger Czukay (1938年3月24日 - 2017年9月5日) の Persian Love を貼りつけて締め括ります。


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