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2021年5月の記事一覧

ベルリンに壁があった時代, 西ベルリン編 〜 1983年5月31日(写真17枚)

戦前の「枢軸国」時代の旧・日本大使館を訪問(写真6枚)ってまぁもちろん見事に廃墟だったけれど, 戦前の駐ナチス・ドイツ, 日本大使館における日本大使(等)の職務や生活の跡が生々しく残っていて, かなりの「見もの」だった。撮った写真があるので, 後段で掲載する。 とりあえず, 旅日記(ここに至るまでに関しては最後から2番目の章)。 ケルンは後日, ベルリンを発ってフランス・パリに向かう途中で再び寄って、大聖堂の写真を撮ったりした。それはまた後日の note にて。 写真

Bonn で ベートーヴェンの生家に行った 2日後, Trier で マルクスの生家へ 〜 1983年5月29日

日本を発って 1ヶ月余り, ソ連, フィンランド, スウェーデン, ノルウェー , デンマークの次に訪れた西ドイツ 〜 ハンブルク, ボンに続いて..「前説」的な, 今日の note の第1章。「章見出し」で言い尽くした(笑)。とりあえず, 直前のボンについて書いた note, リンク貼っとこ。 あ、間違えた, これ ... 「貼っとこ」じゃなくて「ひょっとこ」だった(笑)。 仕切り直し。直前のボン note, リンク貼っとこ。 トリーアは誰あろう, カール・マルクスが

ベートーヴェンの故郷, そして西ドイツの首都だった Bonn 〜 Born to be Wild 聴く? ♫

前説西ドイツ の首都 ボンに 1983年の5月26日から28日にかけて 2泊3日滞在したんだけど(「ベルリンの壁」崩壊の 6年前だから勿論その時はドイツじゃなくて 西ドイツ, そもそも ボン は今も首都機能を部分的に持っているけど再統一後のドイツの首都はベルリン!)、 旅の始まりは横浜 〜 1983年4月26日に横浜港を発って ユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅 をスタート, 以降の note たくさん割愛するけど、その後はソ連, フィンランド, スウェーデン, ノルウェー

38年前の今頃, 西ドイツ・ハンブルクにいた 〜 60年前にビートルズが「今」を生きていた街

なんて大袈裟なタイトルをつけながら、あまり大したことは書かないと思う。ベルリンにまだ壁があった時代のドイツ、西ドイツのハンブルクに 1983年5月23日から 25日まで 2泊3日滞在したけれど、なんとなんと、この街では 1枚も写真を撮っていない(ハンブルクの発音は英語では [UK] hǽmbəːg, [US] hǽmbərg だけど, ドイツ語では ˈhambʊrk となって末尾の音は g でなく k, それから大抵の人が想像する通りで食べる「ハンバーグ」はハンブルクの労働者

草の根 企画の カーニヴァル 〜 デンマーク・コペンハーゲン: 1983年5月22日(写真15枚)

1983年4月26日に横浜港を発って始めた, ユーラシア大陸「ほぼ」一周の旅全部リンク載せたらキリないので, ナホトカ・ハバロフスクの note は飛ばして イルクーツク note とモスクワ note も飛ばして ♫ 少なくともあの頃のロシア(つまり当時のソ連!)はあんまりヨーロッパっぽくなかったから、フィンランドからがヨーロッパ ♫ フィンランド スウェーデン ノルウェー・オスロに続き、ラッキーな巡り合わせというのは、今日のメインは次の次の章から取り上げる, デ

赤いワインをぶちまいた, 遠い夕映え背に受ける ♫ 〜 コペンハーゲン, デンマーク: 1983年5月20日

横浜 〜 コペンハーゲン・パーク 横浜港を 1983年4月26日にフェリーで発って 2泊3日の船旅、 ユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行をするつもりで(実際にしたんだけど)当時のソ連に向かい、ナホトカ1泊, ハバロフスク1泊と進んで, ハバロフスクからはイルクーツクにて途中下車1泊しつつのシベリア鉄道の旅(イルクーツクまでは列車内3泊4日, イルクーツクからモスクワは同4泊5日)、モスクワで2泊3日してから列車で次の国フィンランドへ、その後はスウェーデン、ノルウェーを旅し、5月

ノルウェー, 「憲法記念日」(独立記念日)見聞 〜 1983年5月17日, 写真27枚 ♫

オスロで会った G・ラヴ と フレディ・マーキュリー.. みたいな男のことを書く。1983年4月26日に横浜港でフェリーに乗船、ユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行をするつもりで日本を発った筆者は、当時のソ連、フィンランド、スウェーデンに続いて(スウェーデンでは 首都ストックホルムに 5月13日から15日まで 2泊3日)、 1983年5月16日朝、ノルウェーを訪れた(5月15日夜にストックホルム駅を発ち、夜行列車でノルウェーの首都オスロへ)。 次の次の章で触れるけれど、翌 5月

遥か昔の今頃, イングリッド・バーグマンと ABBA の国, スウェーデンにいた

ってなわけで, 今日はABBA でも聴くか。ABBA でも, とはやや「失礼」な言い方かもしれないけれど、ABBA の音楽は嫌いじゃないし懐かしいけれど、自分自身はファンだったわけでもないので、ABBA「でも」辺りが正直な感覚。 遥か昔の昨日, スウェーデン・ストックホルムに辿り着くまで「遥か昔」というのは 1983年5月12日の夕刻6時過ぎにフィンランド・ヘルシンキをフェリーで発ち, 1泊2日の船旅でスウェーデン・ストックホルムに向かったんだけど、ヨーロッパに入る,

宙に舞い静止するアホウドリ 〜 ピンク・フロイド Echoes 和訳, フィンランド・ヘルシンキ編

1983年5月12日, フィンランド・ヘルシンキ1983年4月26日にユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行を目的に横浜港にて日本を発った拙者、2泊3日の船旅を経て4月28日に当時のソ連のナホトカに着き、ナホトカで1泊, 翌4月29日に列車でハバロフスクに進んで(双六かよ, 笑)1泊, 翌4月30日からはシベリア鉄道の旅, 3泊4日の列車旅を経て5月3日にイルクーツク着, イルクーツクでロシア人少年少女とフリスビーして遊んで1泊の後、翌5月4日にシベリア鉄道の旅を再開, 4泊5日の列

ヨーロッパ に入った 1983年5月11日 〜 BGM は サンタナ, 邦題 「哀愁のヨーロッパ」

前日までいた当時の 「ソ連」って 「ヨーロッパ」 だった?それは「ヨーロッパ」を地理的に捉えるのか, あるいは文化的に, あるいは政治的に捉えるのかで微妙に違ってきたりするのかな。ともあれ, 前日 1983年5月10日の夜までいたロシアは, 当時はソ連だった。「ヨーロッパ」の定義は諸説あるけれど、あのころ多くの人にとってソ連には何というか「ソ連はソ連!」(笑)という特別な位置づけがあって(だからこれはもう地理的な「位置」づけとは別の世界), 一方でソ連ではないがソ連の支配下に

シベリア鉄道の旅して着いたソ連, モスクワ 〜 1983年5月8, 9, 10日

Back in the U.S.S.R. タイトル上は, ホテルの部屋から撮った写真。ではでは, さっそく, "Back in the U.S.S.R.", 今日の(直訳すると)「ソヴィエト社会主義共和国連邦に戻ったぜ」的な投稿。と書いておいて, その前に ♫ "Back in the U.S.S.R.", ビートルズのあの 1968年の歌, 歌詞の中で "Ukraine girls" が出てきて、ソ連時代はウクライナはソ連支配下だったよなぁと今更ながらの歴史を感じさせる。

シベリア鉄道の旅 38周年記念 〜 列車内で酔いどれロシア人と一緒に歌ったロシア民謡 ♫

38周年ってハンパだけど(笑)。因みに昨日はこれだった, つまり, フォーク, ロック, ソウル, ジャズなどのジャンルから「列車」に絡む歌の数々 ♫ シベリア鉄道の列車内で, ウォッカ片手に酔いどれロシア人たちと一緒に歌った歌当時のソ連時代のシベリア鉄道の列車では, ロシア人はじめソヴィエト連邦の国民の専用車両とは別に外国人専用車両があって、後者から前者に入ることは原則的にできなかったけれど(列車内「当局」とも言うべき事実上「官憲」がいて制止された)、その逆, つまりロシ

1973年5月5日, ポール・サイモン, ソロ3作目リリース "There Goes Rhymin' Simon" ♫ 〜 レヴューもどき + 5曲歌詞和訳

というわけで, 今日 2021年5月5日はポール・サイモンの傑作アルバム「ほら、サイモンがまた韻踏んでるよ」のリリースから 48周年の記念日! * 2022年6月11日, 同年4月20日に note にアップしていた "One Man's Ceiling Is Another Man's Floor" 歌詞和訳を加える編集を施し, 本 note のタイトルの該当箇所も「4曲歌詞和訳」から「5曲歌詞和訳」に更新した。 There Goes Rhymin' Simon 〜 ほ

1970年5月4日, 「ブリキの兵隊とニクソン」がオハイオ州で 4人のアメリカ人学生を殺した日 〜 「オハイオ」(CSNY)

"Tin soldiers and Nixon coming .. Four dead in OHIO" (CSNY)これはロック・ファンなら殆どが知っている(と思いたい), クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング, Crosby, Stills, Nash & Young (CSNY) が 1970年6月にリリースしたシングル曲 "OHIO" の歌詞のファースト・ヴァースからとったもの。この曲が前月, 1970年5月4日にオハイオ州で起きた「ケント州立大学銃撃事件」を受け