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文学と喫茶店との関係は、それほどまでに深いのである


『kotoba コトバ』2024年夏号、集英社、2024年6月6日

ある方より《kotoba という季刊雑誌今号の特集は「喫茶店と本」でした。頁を捲ると冒頭から貴兄の『喫茶店文学傑作選』の表紙が見えました。仲俣暁生という文芸評論家の方の文章でした。》というメールを頂戴したので、さっそく誠光社に駆けつけて購入する。ちょうど原稿料代わりにもらった図書カードが2枚あったので使ってしまう。

新刊書はだいたい誠光社で買うようにしている。『洲之内徹ベスト・エッセイ1』(椹木野衣編、ちくま文庫、2024)も併せてもとめる(こちらの感想はまたいずれ)。『佐野繁次郎装幀集成増補版』がみずのわ出版から刊行されたことを堀部店長に伝えておく。『花森安治装釘集成』(みずのわ出版)を驚くほど多数販売してくれた凄腕店長なので佐野本もよろしくとお願いしておいた。

仲俣暁生氏の文章は巻頭に掲載されている「新宿・風月堂からドーナツショップまでの距離ーー「現代文学」と喫茶店」。拙著『喫茶店の時代』と『喫茶店文学傑作選』から書き起こされ、戦後の文学と喫茶店について、まず、新宿風月堂に着目し『喫茶店文学傑作選』に収録した山崎朋子の「新宿=風月堂」を紹介しながら論じておられる。

戦前と戦後の喫茶店文化の分水嶺をどこに置くかといえば、戦後すぐに「名曲喫茶」として始まったこの店[新宿風月堂]が、一九六四年の東京オリンピックを境に日本における対抗文化の拠点となっていった過程に求めるのがふさわしい。山崎はそれに先立つ一九五八年頃、風月堂でウエイトレスとして働いていた。 

p17-18

仲俣氏は《山崎が働いていた時代の風月堂は、戦前のモダニズム文化の延長線上にあった》けれど山崎の夫となる上笙一郎らの木曜会というグループは毛色が違っており《「戦後」が終わり、その次の時代が始まろうとする萌芽を見て取ることができる》と述べておられる。

おそらく風月堂だけで一冊の本が書けるくらい証言は集まるだろうと思うが、大枠はそういうことでいいのではないかと小生も同感する。そして、続けて拙著では触れていない(獅子文六と中上健次は『喫茶店の時代』で取り上げているが)著者たちの作品における喫茶店を分析しておられる。

インスタントコーヒーの時代
・獅子文六『コーヒーと恋愛』

「ジャズ喫茶」の時代
・中上健次『十九歳の地図』『枯木灘』『地の果て 至上の時』
・村上春樹『風の歌を聴け』

カフェ・チェーンの時代
・吉田修一『パーク・ライフ』
・阿部和重『シンセミア』

抵抗の拠点としての「隠れ家」
・堀江敏幸『いつか王子駅で』『河岸忘日抄』『燃焼のための習作』

市井の人々とコーヒー
・佐藤正午『鳩の撃退法』

その上でこう結論している。

 ここまで見てきたように、日本の現代文学にとって「喫茶店」とは、作品と読者との関係を推し量るうえでとても有効な装置である。つまり小説のなかで「コーヒーを飲む場所」が喫茶店として描かれるか、カフェとして描かれるか、それとも「コーヒーを出すそれ以外の場所」として描かれるかをみれば、作者が文学をどのようなものとして考えているのかまでが、おのずと理解できる。
 文学と喫茶店との関係は、それほどまでに深いのである。 

p25

たしかにその通り。文学と喫茶店は似ている、いや、ひょっとして同じものの異なる現れなのではないか、と思わないではいられない。

他に、堀部店長も「『喫茶店のディスクール』余録と補遺」を執筆しておられるし、神保町と喫茶店だとか書店と喫茶店、本と作家と喫茶店など、タイトル通りにブッキッシュな喫茶店特集、かなりの充実度である。

kotoba 2024年夏号
https://kotoba.shueisha.co.jp

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