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私の知る限りただの一冊も自分の本を買ったことがなかった母になりかわったつもりで、本気で好きな本を買い集めようと決意したのだ。


高遠弘美『楽しみと日々ーー壺中天書架記』(法政大学出版局、2024年7月10日、装訂=山元伸子)

高遠さんと知遇を得たのがいつごろだったか、記憶があいまいである。ロミ『突飛なるものの歴史』(高遠弘美訳、平凡社、2010年)が出たときにはすでにそれなりの交渉があったようだ。小生が淀野隆三の日記を読み解いていたときでもあり、共通の知人である編集者から紹介されたのだったような気もする。

本書にも収録されている『産経新聞』連載「プルーストと暮らす日々」のなかに拙文の紹介があり、「ああ、そうだった」とあらためて恐縮しているしだい(「プルーストと暮らす日々」の初出は新聞ということもあって一般読者にも楽しく読める、パリ好き古本好きにはとくにたまらない、好エッセイです)。

その拙文というのは熊田司さんの個人雑誌『えむえむ』2号(2012年2月1日)に寄稿させてもらった「まぼろしの高桐書院版『失われた時を求めて』をめぐってーー淀野隆三日記より」である。戦中から戦後にかけて伊吹武彦と井上究一郎という二人の仏文学者が『失われた時を求めて』を単独で翻訳しようとする、その鞘当てを淀野隆三や井上の日記から知り得る限り述べてみた。プルーストの翻訳家として『失われた時を求めて』の個人新訳に挑戦しておられる高遠さんにとってもむろん興味ある話題だったろうし、何よりプルーストという文字さえあれば、そしてそこに多少でも新情報が含まれていれば、決して逃さない、書誌的な情熱というか執念を感じたことを思い出す。

その井上究一郎の自筆訳稿を入手された話も「プルーストと暮らす日々」には二度ほど登場する(p28, p59)。これは一時期いくつかの古書目録に井上の訳稿が出るという椿事があって(驚いたからよく覚えているが)、本書によればそれは井上家を建て替えたときに一万五千枚におよぶ訳稿が市場に出たためだったらしく、結局は令嬢で仏文学者の金沢公子さんが、高遠さんの入手分などを除き、ほとんどを買い戻したそうだ。上記の拙稿で引用した井上日記も某氏が入手した原本のコピーを使わせてもらった。おそらく流出源は同じだったに違いない。

前置きが少し長くなってしまった。本書はそういうプルースト専門家である著者のプルーストだけに限らない全文業をカバーする半自叙伝と呼び得る内容になっている。中心にプルーストがデンと存在していることは間違いないが、幼少時から青春期、そして吉田健一、石川淳、中村真一郎、種村季弘、澁澤龍彦らへの傾倒、ロミ、マッコルランはじめとしたエロ・グロ・ナンセンスへの接近、古典文学、文楽、そしてジャズに対するの造詣の深さまで、インテリジェンスの塊のようなオールラウンドな著述家というのは近年ではほぼ絶滅してしまったのではないだろうか?(旧かな遣いにこだわる著者も)。加えてさらに本書には若き日の実験的な詩作まで収録されているのである。アール・アバウト・ヒロミ・タカトオとも呼ぶべき稀有な一冊。この企画を通した編集者こそ称えられるべきと考える。いや、そういう編集者を持てることが高遠先生(この"先生"は敬服からです)の真価を示して余りある。

半自叙伝だからそういう人物ができあがるためにはどういう環境や偶然や努力が必要なのか、そのあたりのこともかなり詳しく書かれている。まあ、それは本書を丁寧に読んでいただくに如くはない。とは言え、やはり父母、とくに母上の影響には大きなものがあったことについての部分は引用せずにはおられない。

おそらく、亡母が何かの折に聞かせてくれたのが最初だと思ふ。母は内職をしながら、一人語りのやうによく話をしてくれた。母はまた、戦後のいはゆる新仮名遣ひを最後まで受け入れることなく、小学校や中学の連絡帳にも旧仮名で記す明治生まれのひとであつた。小学校の低学年の頃、学校で習ふ漢字や仮名と違ふのはなぜかと母に訊いたことがある。母は内職の手を休めて、小さな本箱から、鏡花全集の端本や戦前の岩波文庫の何冊かを取り出してきて開きながら、それこそが日本語として正しくかつ美しいことを語つた。さりとて、母が戦前の体制をよしとする保守派だつたかと言へば、全く逆で、天皇制に対する激烈な批判を何度も聞いたことがある。今思ひ出してもあの硬骨ぶりがたまらなく懐かしい。

p564


 あの頃【十代の頃】こういう問い【いま読みたい詩の本 三冊】があったら、迷わず万葉、古今、新古今と答えただろう。奇を衒ってこんなことを言うのではない。高三の夏に急逝した母親の遺品に自作の和歌を記した小さな手帖があって、それを読んだとき、大学の専門課程は国文科に進んで、母から教わった和歌集を研究することがせめてもの供養になると考えたのである。

【 】内は引用者註 p773

 明治生まれの父母は、貧乏をまるで気にしていなかった。武士は食わねどを実践していたわけでもあるまいが、商売をしていたのに子どもがお金の話をすると露骨にいやな顔をした。厳格な父は、ときどきは甘い顔をすることもあったけれど、ひどい吃りだった私が家でごろごろしながら、本に顔を埋めていると、いつもきつく叱った。本を読むくらいなら、外で遊んでこいというわけだ。
 その父は私が小学校の五年生だった夏に癌で死んだ。残された母の悪戦苦闘が始まった。母の双肩に突然のしかかってきたのは、一向に儲からない店と、二人の育ち盛りの子どもの食い扶持だった。

p584

実際には早稲田大学の国文科ではなく仏文科へ進むわけだが、説明会の場で仏文志望のお坊ちゃんお嬢さまばかりの学生に囲まれて途方に暮れながらも、内心、開き直って決意を固めるところは感動的である。

さてどうしよう。決して自暴自棄になったわけではないが、ふと、薄暗い灯りの下で深夜まで内職にいそしんでいた母の姿がまぶたに浮かんだ。それほど好きなら仏文科に進めばいいじゃない。お金はないし、ツテもコネもないだろうけれど、一度きりの人生なら、好きに生きればいいじゃない。就職なんかできなくても、好きなものに没頭できるならお前は幸せじゃないの。そんな母の声が聞こえたような気がした。何かがふっきれて仏文科に進むことにした。それだけではない。あれほど本が好きだったのに、私の知る限りただの一冊も自分の本を買ったことがなかった母になりかわったつもりで、本気で好きな本を買い集めようと決意したのだ。おしゃれも美食も女たちも、いざさらばの心境であった。
 その後、偶然が重なって大学院に進むことになったが、下宿の六畳間の万年床のまわりは三方が天井近くまで本を積んだ本棚で、毎晩布団に潜りこんで上を見ると、書棚は雲を突くバベルの塔のようにも見え、いつ崩れてくるか心配になるほどだった。不謹慎な言い方だが、あの頃、震度5クラスの地震があったら、確実に本につぶされていただろう。

p586-587

書物蒐集に関する印象的な記述は本書のあちらこちらに見られる。その原点が母上の小さな本箱だったことは特筆しておきたい。

敬愛する吉田健一の誤訳や『O嬢の物語』の誤訳(タイトルからしておかしい。だから高遠訳は『完訳 Oの物語』)を鋭く指摘する部分、あるいは「失われた時を求めて」の冒頭についての平易で懇切な解説も、読んでいるとそれこそ高遠先生のフランス文学の講義を拝聴しているような錯覚に陥るのだが、その気分の良さは実際に高遠先生に学んだ学生さんたちの幸運を羨みたくなるほどである。
 
以上、ほんのわずかばかりの内容を断片的に紹介した。しかしながら本書の重宝さはこんなものではなく、いたるところ読みどころ、どのページを披いても引き込まれる。猛暑の夏、涼しい部屋で繙くにはこれ以上もってこいの書物はない。眠気がきざしてくれば、そのまま枕にもなるという便利さである(参照 p46)。

最後に、淀野隆三日記へ戻ると、五十冊余りのその日記原本は現在、明治大学図書館に所蔵されている。これは小生の依頼で高遠さんが尽力してくださったおかげである。高齢になられたご子息の手元から散逸させずにひとまとめで収まるべきところへ収まった(晩年の淀野隆三は明治大学で教鞭を執っていた)。深く感謝しております。

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