私の知る限りただの一冊も自分の本を買ったことがなかった母になりかわったつもりで、本気で好きな本を買い集めようと決意したのだ。
高遠さんと知遇を得たのがいつごろだったか、記憶があいまいである。ロミ『突飛なるものの歴史』(高遠弘美訳、平凡社、2010年)が出たときにはすでにそれなりの交渉があったようだ。小生が淀野隆三の日記を読み解いていたときでもあり、共通の知人である編集者から紹介されたのだったような気もする。
本書にも収録されている『産経新聞』連載「プルーストと暮らす日々」のなかに拙文の紹介があり、「ああ、そうだった」とあらためて恐縮しているしだい(「プルーストと暮らす日々」の初出は新聞ということもあって一般読者にも楽しく読める、パリ好き古本好きにはとくにたまらない、好エッセイです)。
その拙文というのは熊田司さんの個人雑誌『えむえむ』2号(2012年2月1日)に寄稿させてもらった「まぼろしの高桐書院版『失われた時を求めて』をめぐってーー淀野隆三日記より」である。戦中から戦後にかけて伊吹武彦と井上究一郎という二人の仏文学者が『失われた時を求めて』を単独で翻訳しようとする、その鞘当てを淀野隆三や井上の日記から知り得る限り述べてみた。プルーストの翻訳家として『失われた時を求めて』の個人新訳に挑戦しておられる高遠さんにとってもむろん興味ある話題だったろうし、何よりプルーストという文字さえあれば、そしてそこに多少でも新情報が含まれていれば、決して逃さない、書誌的な情熱というか執念を感じたことを思い出す。
その井上究一郎の自筆訳稿を入手された話も「プルーストと暮らす日々」には二度ほど登場する(p28, p59)。これは一時期いくつかの古書目録に井上の訳稿が出るという椿事があって(驚いたからよく覚えているが)、本書によればそれは井上家を建て替えたときに一万五千枚におよぶ訳稿が市場に出たためだったらしく、結局は令嬢で仏文学者の金沢公子さんが、高遠さんの入手分などを除き、ほとんどを買い戻したそうだ。上記の拙稿で引用した井上日記も某氏が入手した原本のコピーを使わせてもらった。おそらく流出源は同じだったに違いない。
前置きが少し長くなってしまった。本書はそういうプルースト専門家である著者のプルーストだけに限らない全文業をカバーする半自叙伝と呼び得る内容になっている。中心にプルーストがデンと存在していることは間違いないが、幼少時から青春期、そして吉田健一、石川淳、中村真一郎、種村季弘、澁澤龍彦らへの傾倒、ロミ、マッコルランはじめとしたエロ・グロ・ナンセンスへの接近、古典文学、文楽、そしてジャズに対するの造詣の深さまで、インテリジェンスの塊のようなオールラウンドな著述家というのは近年ではほぼ絶滅してしまったのではないだろうか?(旧かな遣いにこだわる著者も)。加えてさらに本書には若き日の実験的な詩作まで収録されているのである。アール・アバウト・ヒロミ・タカトオとも呼ぶべき稀有な一冊。この企画を通した編集者こそ称えられるべきと考える。いや、そういう編集者を持てることが高遠先生(この"先生"は敬服からです)の真価を示して余りある。
半自叙伝だからそういう人物ができあがるためにはどういう環境や偶然や努力が必要なのか、そのあたりのこともかなり詳しく書かれている。まあ、それは本書を丁寧に読んでいただくに如くはない。とは言え、やはり父母、とくに母上の影響には大きなものがあったことについての部分は引用せずにはおられない。
実際には早稲田大学の国文科ではなく仏文科へ進むわけだが、説明会の場で仏文志望のお坊ちゃんお嬢さまばかりの学生に囲まれて途方に暮れながらも、内心、開き直って決意を固めるところは感動的である。
書物蒐集に関する印象的な記述は本書のあちらこちらに見られる。その原点が母上の小さな本箱だったことは特筆しておきたい。
敬愛する吉田健一の誤訳や『O嬢の物語』の誤訳(タイトルからしておかしい。だから高遠訳は『完訳 Oの物語』)を鋭く指摘する部分、あるいは「失われた時を求めて」の冒頭についての平易で懇切な解説も、読んでいるとそれこそ高遠先生のフランス文学の講義を拝聴しているような錯覚に陥るのだが、その気分の良さは実際に高遠先生に学んだ学生さんたちの幸運を羨みたくなるほどである。
以上、ほんのわずかばかりの内容を断片的に紹介した。しかしながら本書の重宝さはこんなものではなく、いたるところ読みどころ、どのページを披いても引き込まれる。猛暑の夏、涼しい部屋で繙くにはこれ以上もってこいの書物はない。眠気がきざしてくれば、そのまま枕にもなるという便利さである(参照 p46)。
最後に、淀野隆三日記へ戻ると、五十冊余りのその日記原本は現在、明治大学図書館に所蔵されている。これは小生の依頼で高遠さんが尽力してくださったおかげである。高齢になられたご子息の手元から散逸させずにひとまとめで収まるべきところへ収まった(晩年の淀野隆三は明治大学で教鞭を執っていた)。深く感謝しております。
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