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「花」の美しさといふ様なものはない


白洲正子『器つれづれ』(世界文化社、2000年2月10日)

まさにつれづれに白洲正子『器つれづれ』をめくっていますと、小林秀雄の骨董について書かれているところで目が止まりました。「骨董とのつきあい」。

勿論、金持ちの骨董いじりとは程遠いものであったが、美術を鑑賞するというより、骨董を買うことを愛していたからだ。既に言い古されているが、『当麻[たえま]』という作品の中に、次のような言葉がある。
 
  美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

 これは世阿弥の「花」について語ったもので、その前に、「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし」という『花伝書(風姿花伝)』の一節があるのだが、この美しい「花」を「物」に置き換えてみれば、小林さんが美についてどういう考えを持っていたか、知ることができる。

p31

ふ〜む。考えてみますれば、《「花」の美しさ》はない、ということは突き詰めれば《美しさ》という抽象概念はないということでしょうか。一方、《美しい「花」》の《美しい》は小林の中にあるもので「花」にあるものではないでしょう。自分の《美しい》はあっても、他人というか皆に共通の《美しさ》はないのだ、というふうに解釈していいのかどうか。

要するに《美しさ》というようなものはなく、それを美しいと思う自分が美しいと、小林は言いたいのかも知れません。そうだとすると、世阿弥の意図するところとは百八十度違うような気もします。

この後のくだりで白洲は、小林が自慢した絵皿を青山二郎に偽物だと決めつけられて、夜も眠れなくなる話を小林の「真贋」から引いています。上の話と対照してみるとなかなか意味深いものがあります。

その晩は、口惜しくて、どうしても眠れない、何度も起きて眺めてみるが、「心に滲みる様に美しい。この化け物、明日になったら、沢庵石にぶつけて木端微塵にしてやるから覚えてゐろ、とパチンと電気を消すが、又直ぐ見たくなる」といった工合で、しまいには、「もう皿が悪いとは即ち俺が悪い事であり、中間的問題は一切ない」ところまで思いつめてしまう。そこで翌日壺中居へ持って行って見て貰うと、それが真物[ほんもの]とわかり、小林さんは気が抜ける。「これはいゝですよ」と言われても、ヘドが出るほど見ちまったものだ。「もう二度と見るのも嫌だ」と、その皿を店に置いて帰るのである。

p38

ほら、《皿が悪いとは即ち俺が悪い事》と自分でも認めています。美しいと思う自分が美しい、と小林は思っていたことになります。

ひょっとして、それが分かっていた青山二郎はわざと難癖をつけたんじゃないでしょうかね、なんだか、そんなふうにも思えます。

青山の一言に震え上がって夜も眠れないのに、壺中居の一言で目が醒めるなんて。それはそれで、小林・青山の関係がうかがえて面白いとは思いますが、小林は結局自分を愛したいということなのでしょう。もちろん、それはコレクターに対してなら誰にも当てはまる法則のようなものだと私は考えますけれど。

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