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いま、僕にできることは、自分の好む詩について、極めて個人的に語ることだけである


『荒地詩集 1955』(荒地出版社、1955年4月15日)

京都の四条寺町にある藤井大丸の地下で古本市があった。ときどきいい本が見つかるので出かけるようにしている。今回はこの『荒地詩集』をもとめた。少し汚れていて帯もない。ただし見たことのないレッテル(書店票)が後見返しに貼付されていたのが魅力的だった(あかつき書房は知ってます)。値段は高くも安くもなかった。

神戸三宮センター街・あかつき書房のレッテル


『荒地詩集』は1951年から1958年までの9冊と『詩と詩論』1と2の2冊、および『荒地詩選』の合計12冊で一揃いである(復刻版も出ている)。三篇ほど引用してみる。やはりまだまだ戦争の影が濃いようだ。

  友よ  黒田三郎

善意のみを求めて
遂にすべてを失つてしまつたのであろうか
帽子も
地位も
恋人も
おずおずと差し出される白い暖い手を
ふり払うがいい
美しい言葉のささやきを
硝子のようにこなごなにしてしまうがいい
ほかに凭れかかるものが何もないからといつて
廃墟のなかで
不用意に凭れかかることを注意せよ

たれにも打ち明けられぬ秘密のように
近寄る者悉くの命をとる青い湖水のように
沈黙のみがふさわしい

虚偽の弁舌を瓦礫のように踏み
雑草のように伸びるものを押しわけて
ひとり背を見せてゆく友よ
雲のみの美しい日に
ポケットの穴から
友よ
パンのかけらがこぼれ落ちる
                      (一九四七年)

p31


  明るいキャフェーの椅子  鮎川信夫

カウンターのうしろで
電話のベルが鳴りはじめた
「もし、もし……もし、もし……」
聞えてくるのは木枯の声ばかりだというのに
こんな真夜中
まだ眼ばたきしているやつがいる

「ここは、ほんとに気持のいい場所ね
「ビールが冷たくて、とてもおいしいよ
「寝るまえに、もう一杯いかが?
壁づたいにきこえてくる
読みさしの小説のつづきは
それつきりとだえてしまつた
誰のものでもない淋しさが
自分ひとりのものとなる時刻ーー

ぼくの灰皿から
うす青いけむりがゆつくりと立ちのぼる
飲み台のうえのウェイトレスの手は
さつきからすこしも動かない
すべてがきちんとして
その白い手のように明るく清潔にみえる

「無」の指をひらくのは
凍つた壜のなかの
ブランディの血を燃えたたせる火
その光りというものだろう
ぼくはまぶしい「無」の下で手をみつめる
それは昨日の正午
青空にくつきり聳えて輝いていた五つの尖塔
その影というものだ

p73-74


  にぶい心  田村隆一

ぼくの知つている子供といえば
下町の死んだ子供たちだけだ

空から落ちてきたとしか思えない
あかさびた非常梯子をよじのぼり

つめたい電線より高いところが
きみの最初の隠れ家だ

ぼくを呼んだのは?
きみの仲間だよ

二度目に呼ぶのは?
きみの妹さ

三度目に呼ぶのは?
おかあさんかな
 
四度目は?
コンクリートにふる雨だよ

五度目は?
黒い蝙蝠傘をさした人だよ

六度目?
その人の疲れた心だよ

七度目?
世界のおおきな嘆息だよ

八度目?
さあ下りたまえ! ぼくは忙しいんだ

p104-105

表題にした《いま、僕にできることは、自分の好む詩について、極めて個人的に語ることだけである》は鮎川信夫「『荒地』に関する二つのエッセイ」(本書所収)より。

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