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木山捷平の詩と日記


井伏鱒二『海揚り』(新潮社、昭和五十六年十月二十日、装画=吉岡堅二)

昨年、福山市のふくやま文学館で井伏鱒二の再現書斎を訪ねて以来、あらためて井伏を読み直したいと思いはじめて、安い本が目に入るとつぎつぎ買っています。とにかく数が多いので、あっという間に段ボール箱がいっぱいになりました。ふくやま文学館にもたくさんの著書が並んでいましたっけ。

『海揚り』は百円でした。あんまりなのでもとめました。「御隠居」という作品が収められていますが、まさにこの本そのものが御隠居の昔話のおもむきがあります。ここでは「木山捷平の詩と日記」から阿佐ヶ谷将棋会の部分をとりあげてみたいと思います。

阿佐ヶ谷将棋会は昭和十二年に発足しました。将棋会、阿佐ヶ谷会、出版記念会、竹の会、侘助会など毎月一回づつの会には木山も井伏もたいてい出席したそうです。昭和十四年二月五日、宇野浩二の日曜会に出席した記事が木山の日記に出ています。日曜会は宇野と広津和郎の二人を囲んで雑談する会です。

小生酒を二杯位のんだだけ、自重。席上芥川賞の候補として、北原武夫、南川潤、中村地平、一瀬直行、木山など残つてゐると伝へられる。》(p74)

宇野浩二は審査員なので内情に通じていました。その散会後、おでん屋に寄ってから皆で中村地平の家に上がり込みます。木山日記からの引用です。

小田(嶽夫)君等はマージャン。余と井伏氏は将棋。四戦三勝。井伏氏は、余が長く考へてゐると本気で怒り出した。中村とは三戦三勝。中村は余が待ちゴマをしたとて文句をいふ。このあと井伏氏と三戦、これは小生三敗。》(p75)

昭和十三年下半期の芥川賞・直木賞の選考会は日曜会から一週間後の昭和十四年二月十二日に開催され、受賞は中里恒子(女性の初受賞者)と大池唯雄と決まりました。残念ながら木山は受賞できませんでした。

井伏は《木山君は芥川賞に大して関心を持つてゐないやうな風をしてゐたが、日記に書いてゐるやうに候補に立てられたと知つた上は、是非とも貰ひたいと思つたに違ひない》とし、木山が案外負けずぎらいなところがあったようだと見ます。

阿佐ヶ谷将棋会で実力があったのは、古谷綱武が一番で、誰にも負けるのが中村地平であつた。だから地平さんが出席すれば、他の者は全敗といふことはあり得ない。いつも地平さんが出席すると、みんなに拍手で迎へられる由縁はそこにあつた。「中村とは三戦三勝。中村は余が待ちゴマをしたとて文句をいふ。」と木山君は買いてゐる。ずゐぶん余裕のある一局であつたらう。私は中村君が口癖のやうに「待つた」を掛けるので辟易させられた。こちらがまだ駒を打たないのに、「待つた」と云ふこともあつあつた。
 地平さんは大学一年二年の頃は太宰に勝つてゐたが、三年ごろには太宰の方が勝つやうになつた。北支事変が苛烈になつてゐた頃は、地平さんは将棋に夢中になつて、「人生は将棋があるから生きる甲斐がある」と冗談を云つてゐた。大学を出ると地平さんと太宰は一緒に都新聞の入社試験を受け、地平さんは入社しても太宰は入社できなかつた。その頃、将棋はもう太宰の方が私より強くなつてゐたが、つい太宰は悪手を差すと、将棋そのものを否定するかのやうに手拍子で出任せの手を差した。ところが、こつちが悪手を差すと、待つてゐたかのやうにげらげら笑つて、一生懸命になつて差して来る。
 木山君は太宰より少し弱かつたと思ふ。しかし、遊びで差すときには、太宰は三戦一勝くらゐに自分を抑へてゐた。大変な外交家であつた。ただ地平さんにだけは遠慮しなかつた。遠慮しやうがないほど地平さんは弱かつた。
》(p77-78)

芥川賞を逃したと知った木山は「何となくさびしさ身にしむ日」に、まず田畑修一郎を訪ねましたが、留守でしたので、亀井勝一郎のところへ行きました。夕食をご馳走になり将棋を十戦くらい指しました。

普段、木山君は私の差しかたが早すぎるので、つい自分も手拍子で差して落手をすると愚痴をこぼしてゐた。そのくせ、亀井君とも約二時間半ぐらゐに十戦も差してゐる。日記に「井伏氏は、余が長く考へてゐると本気で怒り出した。」と書いているが、こちらは対局中の掛引として言論戦のつもりであつた。》(p78)

将棋の指し方にも作風が反映するということでしょうか。

1953年、阿佐ヶ谷会にて 前列左から木山捷平、藤原審爾、井伏鱒二、
河盛好蔵、上林暁、滝井孝作、大山康晴(将棋十五世名人)
『没後30年 井伏鱒二展 アチラコチラデブンガクカタル』図録より
(県立神奈川金田文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、2023)


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