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私は死ぬまで本を読む。それだけのことだ。


岡崎武志『ふくらむ読書』(春陽堂書店、2024年5月25日、装幀=クラフト・エヴィング商會)

岡崎武志『ふくらむ読書』をいつものことながら面白く読了。本の読み方のポイントをとらえていることは当然として、その表現のテクニックがもう円熟の境地に達している。

古本屋や古本市などに出かけて、あまり買うものが見当たらないとき、あるいは少し買いすぎたとき、そこに詩集を一冊でいいから混ぜることをよくする気がする。まず詩集は体裁として、ほとんどが薄く軽量で、一冊増えても影響が少ないことが大きい。それと、やっぱり詩集が好きで、雑然とした買い物にこれを加えることで引き締めたい、という思いもある。個人的かつ微妙な問題なので、わかってもらえなくてもいいと思っています。

p96

買った本をすべて読むわけではない。点検する思いで、パラパラとページをめくってみる。これが私の読書生活において大切な時間であることは、これまでにも何度か書いた。その折りに、詩集ならたいてい一編は短いから、二、三編を読むことは可能である。一冊丸ごとを読んでも大して時間はかからない。ただし、詩を読むことは集中力を要するので、なかなか丸ごと、とはいかない。アイスティーにレモン汁を二滴、三滴落とす感じの読書となる。

p98

買うものが見当たらないときはともかくとして、《あるいは少し買いすぎたとき、そこに詩集を一冊でいいから混ぜることをよくする》はその道の達人の名言だ。どのくらい達人かというと、こんなことも書かれている。

 本格的な蔵書処分が進行中で、知り合いの古本屋さんに来てもらい、これまでに続けて四回ぐらい大量に本を売った。五回めも準備中。うず高く本が積まれて通行不能になっていた通路が開通し、階段の両側を埋めた本の塔も消えた。床にはみだした本もどんどん処分。一万冊近くは減ったか(数年後の現在は元のもくあみに)。
 なにしろ、過去一〇年ぐらいは見ても触ってもいない本棚があり、それは一〇年間必要としなかったのだからないのも同然だと割り切り、あっさり放出することにした。惜しい本もあるが、それぐらいの荒療治をしないと、とても数万冊で埋まって身動き取れなくなった死せる蔵書は生き返ららない。

p74-75

私も一度、まだそこまで本に埋もれていないときに岡崎邸を訪れたことがある(というか泊まらせてもらいました)。書斎は地下室なのでどんなに本を詰め込んでも床が抜ける心配だけはない。その代わり上の階には本を置かないようにと奥方に厳命されていたようだ・・・この話は岡崎氏自身がどこかで書いているはず。

このように森林浴ならぬ古本浴(あるいは古本欲)で書物ライターの世界を生き抜いてきた岡崎氏の現在の心境はこういうものだそうだ。

 もっと、みんな本を読めよと、もう少し若い頃ならハッパをかけていたが、いまさらそんな気にもなれない。それぞれが、それぞれの好みと流儀で生きていくしかないだろう。私は死ぬまで本を読む。それだけのことだ。

p207

読書エッセンスをどっさり注ぎ込んだアイスティーのような一冊。おすすめ。

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