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最強無敵要素|演技の原理 6

キャラクター設定の続きです

前回、前々回と動機や背景についての設定について書くと予告しましたが、今回もキャラクター設定についての記事です。

前回、キャラを演じるのことの弊害について書き連ねましたが、今度は前向きな要素、自分のままで演じることの意味について書きたいと思います。

やはり、あくまで私の演技メソッドに基づく記事であり考察ですので、そこはご了承ください。
ちなみに私は役者目線でこの記事を書いているわけではありません。
監督・脚本・カメラ、そして役者経験と、一通り経験することとなった複雑な道筋からたどり着いた考察です。

役イコール自分である

一番大事な要素の一つは「共感」です。

共感はスゴイ!!と思われることとは違います。
演技力をほめてもらうこととも違います。
演技の感想を受けるのではなく、役の感覚を味わってもらうことが大事です。
登場人物の心の痛み、喜び、愛の感情などがオーディエンスに伝わっているかどうかは、作品の出来不出来に大きくかかわるじゃないでしょうか。

その時に自分が五感で受けた感覚的な反射、またはその時の本当に起こっている心のざわめきなど、オーディエンスは基本的に役者の有機的な部分に共感しますから。

オーディエンス目線に見えているのは役者ではなく役であり、キャラクターの反射から来る感情の動きに共感をして何らかの感銘を受ける。
だから役者としては自分の感覚を大事にしていないといかんのです。

そのシーンの中で起こすいかなる外的・内的アクションも、オーディエンス目線には、その世界の中のキャラクターのものなのです。

役者目線、役イコール自分です。

役作りが必要ないという意味ではない

じゃあ役作りは必要ないかというと、全然必要はあります。
先の記事でも書いた通り、キャラクターの要因となる行動の集積を作っていく必要がありますし、自分の体験していない背景を刷り込んでいく必要があります。

実際にはいじめらた経験のない役者が、いじめられ続けた役をもらったとします。
単純にいじめられっ子の映像を観たりしてそのイメージを被るのではなく、そのいじめられ続けた体験を自分の中に植え付けるのです。
その体験さえ仕込めれば自分の感覚のままで、今現在の自分とは違う自分ができます。自分じゃない自分。

役作りとは誰か他人になることではなく、自分の経験していないifの世界・バリエーションを探す作業です。

キムタク論

ちなみに過去、木村拓哉さんがよく、どの作品でも同じ演技、的な批判を受けるのを目にしましたが。
私は木村拓哉さんは正しいと思っています。
だってどの作品も面白いし。なんで面白いかってそれは共感できるからであって。
共感できるということは自分の感覚を大事にされているからであって。

重ね重ね、役を演じる必要はないということ。
あくまで自分を貫くこと。

木村拓哉さんは大体主役クラスですが、バイプレイヤーでも同じ。
自分の感覚のまま五感で感じられるように、背景を掘り込んで体験し、主義や志向・嗜好を設定することによって、変化をつける。
あくまでどんな役も自分のバリエーションとして対応できるように。

最強無敵の自分自身

さらにもう一つ、自分で演じることによる恩恵があります。
絶対に誰にも負けなくなる、ということです。
自分自身の体験は自分自身のものです。他の誰にもまねはできません。

もし大事な恋人がいたとしたら、その恋人との歴史は自分だけのものだし、自分の親兄弟との関係も自分だけのものでしょう。

自分を最大に参照することで、誰にも到達できない自分だけのキャラクターが出来るはずです。

世の中、自分度だけは絶対に誰も負けるわけはないのです。

自分にとって代われるものはいようはずがなく。
どんな人間も希少価値はまったく同じで宇宙にただ一つなわけです。

なので自信を持って自分で貫けば活路は見えてくれでしょう。

なんて、ちょっとかっこいいこと言ってました。

次回予告

今回も最後までお読みいただき誠にありがとうございます!
いよいよ本題の動機・背景のうちの特に動機・モチベーションの設定に入りたいと思います。
何かご意見ありましたら是非コメントいただきたいですし、スキとかもらったら一日中ニヤニヤしちゃいます。
一緒に演技について考えていきましょう!



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