豊島紀 ㉓糸谷哲郎ボヘミアン・ラプソディを熱唱す
令和5年5月5日こどもの日、『森一門祝賀会』に行ってきた。
私が森信雄先生の存在を知ったのは河口俊彦の本でだ。その中で「森信雄と村山聖の師弟関係」について書かれていていて、それがたいへんに衝撃的で忘れられなかった。曰く「森は村山を自分の家に住まわせ、時には一杯のかけそばを分け合って食べた時もあったという」。いや、これは私の記憶の捏造で、かけそばを分け合ってたなんて書いてなかったですが、「二人は貧しさに耐えながら身を寄せ合って生きていた(大意)」みたいなことが書いてあったんですよ。まだ村山聖が存命の頃のことである。当時、団鬼六の『真剣師 小池重明』も出て読んだから、「なるほど将棋とはそういう世界なのか」と納得してしまった(そういうって、どういう世界なんだ。村山聖と小池重明じゃぜんぜん違うだろう。いや、だから、つまり「玄人の世界」ということ)。
その後、園田競馬場で森先生と会いする機会があった時に、勝手に頭の中に醸成されていたイメージは、
みたいなものだったので、初対面では反対の意味でびっくりした。将棋界一と言いたいぐらいのやわらかい美声で物静か、しかしお話をすればけっこうラジカルかつシニカル、でもちゃんとやさしい。でもちゃんと、厳しい。
そういう先生の許に形成された、将棋界でも最大勢力を誇るんじゃないかという「森一門」。この日も集まった棋士は20人。さらに奨励会員も控えている。だからといって、数を恃んで圧力集団になるわけでなく、個々でぽこぽこと、不思議な個性を発揮する異能集団となっている。そんな森一門の、年にいちどのお祭りが『森一門祝賀会』。主旨としては、一門内から昇段や優勝やタイトル獲得があったらその人を、一門とファンみんなでお祝いしましょうというもので、今年は五段昇段の石川優太、森門下増田六段の弟子の柵木幹太が四段昇段で森先生にとってはじめてのプロ孫弟子誕生ということでこの両名が主賓です。
柵木くんというと、何年か前に藤井聡太のドキュメンタリー番組で、奨励会時代の映像が流れ、そこで奨励会幹事の山崎隆之(森門下!)が奨励会員の出席を取るところで、「藤井」「はい」「ませぎ」「はい」ってやってる場面があり、
あの時の「ませぎ」くんがついにプロに。しかし「ませぎ」が「柵木」だなんて思わなくて文字で見てたら気づかなかっただろう。というかすごい難読名ですよね「柵木=ませぎ」。森門下には奨励会三段に「獺ヶ口笑保人」くんというさらにすごい名前の人もいます。
で、祝賀会ですけど、二人のお祝いというより、お祝い名目でファン感謝デーやってくださってるようなものです。まずは先生がたによる指導対局大会を約4時間。アベトナチームリーダー級3人を含む20人の先生たちが三面指しの指導体制。チョー豪華。
私は「指導対局には近寄らない」を旨としているのでただ見物してただけですが、このメンツとあらば指導対局を受けたい人は老若男女すごくいっぱいいて、1巡目の定員60人では到底さばききれるものではなく、一回終わっても2巡目に並ぶ人もいっぱいいるわで(90歳ですというお婆さんが「まだ勉強中です」とおっしゃって確か四枚落ちで教わってらしたのがすごい迫力だった。ご本人は楽しそうに指してらしたが)、指導するほうも「ここで成ったらかえって狭まりますね」とか「見える手が二つあるから、どっちが相手に痛いのかを考えてみて」とか丁寧に指導してるし、
先生がたはどなたも途中でだらけたりしないし(当たり前かもしれないが、あの長時間、のべつまくなしに三面指ししまくり、指導もしまくりという状況はハードですよ、ふつうダレるよ)尊敬しないわけにはいかない。
このたびはじめてナマでお姿を見た、という棋士もたくさんいたわけですが千田翔太七段が目の前に現れたとき、今までナマで棋士を見た時の──たとえばナマ豊島をはじめて見た時──とは別種の衝撃があった。立ち姿、たたずまい、黙っている時の表情や目つき。なんか、すごく水際だっているのであった。
目はくぎ付けになったが、近寄りがたい雰囲気があって、柱に隠れてガン見していたのですが、BL小説における「若きコンツェルン総裁」「美しき企業舎弟」みたいな、クール系スパダリっつーんですか? そんなやついるかよ〜ありえねー、みたいなキャラっているじゃないですか。囲碁の一力遼をはじめて見たとき(完全に写真の見た目だけの話です)、うわっこれは若きコンツェルン総裁や、と思い、しかしわかってくれる人がいそうもなかったので今まで黙っていた、が、千田さん見たら「将棋界の若きコンツェルン総裁がここにいた」と衝撃を受けたから書いておくことにする。この若き総裁が、先後指し間違いネタをなにかといえばぶっこんでくるわ、アベトナのチームTwitterでプロかと思うぐらい硬軟織りまぜたツイートをしまくるわ、これが「やり手スパダリ」の新しい方法論か。……などと思ってしまうぐらいある種のカッコ良さをたたえていた千田先生。
この指導対局タイムが終わると、会場を移して『祝賀会』本編が始まる。ディナーショーやりそうなホテルの大広間に丸テーブルが12個ぐらいかな、そこに着席形式で美味しいおディナーをいただきながら、開会の辞、壇上で主賓へ花束贈呈、乾杯、一門棋士たちのチェスクロック使用一分挨拶、そして棋士のアトラクションコーナーと続く。アトラクションとはいったい、と思っていたら、
糸谷哲郎八段による『ボヘミアン・ラプソディ』熱唱、いや絶唱
なぜ糸谷さんがこの歌を歌うことになったかということは、森先生の奥さんのルンちゃんがブログで説明してくださっている。
このアトラクションは観衆の度肝をぬいた。
会場横手にスクリーンがあり、糸谷さんが壇上でマイクの前に立つと客席がふっと暗くなり、スクリーンに、
これが浮かび上がって、見る人が見ればこれはボヘミアン・ラプソディのMVである。は? なんでボヘミアン? ボヘミアン将棋(なんだかわからない)でもやるのか? と思ったら、「Is this the real life〜〜♩」のコーラス(カラオケ)が流れだして「ええーっ?」と思う間もなく、糸谷八段の歌声がかぶさる。ファルセットだ。そりゃそうだ、あの音域を地声で歌える人がいたら米良美一だ。そうではなく、あの堂々たる体軀の糸谷さんのか細いファルセットが会場に響きわたった。
糸谷さんがボヘミアン・ラプソディを歌い始めた。
会場は水を打ったように静まりかえり、そして震えだした。
そもそも『ボヘミアン・ラプソディ』は超絶に難しい、というよりも形をつけるのが難しい、歌として聞こえさせることすら難しい曲で、途中の、
I see a little silhouetto of a man
Scaramouche, Scaramouche,
will you do the Fandango?
からコーラス部分に入る前に強引に歌い終わらせる、というカラオケ作法もあるぐらいで、私も糸谷さんが歌い始めた時には「途中で終わるパターンだろう」とタカをくくっていたが、
フルコーラス歌いきった
途中から会場の手拍子(将棋用語のほうではない)が沸き起こり、私は「ロックに手拍子は超ダサいからヤメテくれ論者」なのだがその手拍子はそんな「ロックを知らないダサ手拍子」じゃなく、そこに現れた「ボヘミアン・ラプソディの精神」に会場全体が呑み込まれて自然にわき起こったグルーヴだった。こんなボヘミアン・ラプソディは、聴いたことがない。冥土のフレディー、以て瞑すべし。
このボヘミアン・ラプソディは、歌唱力があるとか、上手、というものではない。じゃあヘタとか、音痴というものでもない。たとえて言えば、「打ちごろの球速のストレートがど真ん中に来たのにまったくバットが動かずぼうぜんと見送り三振に打ち取られる」ような歌唱だった(かえってわかりづらい)。上手とか下手とか、そんな世間のつまらぬ評価など超越したパフォーマンスであったことは間違いない。こういう時に、小器用にこぶしでも回されるのがいちばん困るし居たたまれないのである。
祝賀会が終わったあと、一門棋士によるお見送りがあって、そこで糸谷さんが、カラオケ巧者の西田拓也五段と二人でカラオケボックスに行って練習をしたと言っていたので、私は思わず「れ、練習とはどういったことを」ときいてしまったのだが、「私が歌うのを西田さんに聴いてもらって指導を受けた」とのことで、西田さんがどういう指導をしたのかわからないが角を矯めて牛を殺すようなことをしなかったことに感謝をしたい。山崎さんが、他のお客さんから「コーラスで参加すればよかったのに」と言われて、「いや、自分のような、ネタにもならないようなビミョーにヘタなのが入ったらぶち壊しになるから」と返していたのは、いろいろ「わかってる」と思った。
「さあ、八段、糸谷哲郎が歌い上げます、ボヘミアン・ラプソディ」
こうでなければならなかった。そして糸谷哲郎は、きっちりとそれをやりきったのである。
このボヘミアン爆弾があって、もうすべて終わったような気持ちに襲われたが、そのあとも「この歌を受けていったい私が何を言えばいいのか」という山崎隆之トークコーナー(すぐ終わった)、記念撮影コーナーときて、うわー終わった、ボリュームありすぎ、味濃すぎ、と思ったら棋士の皆さんより提供のプレゼント抽選コーナー(森先生プレゼントのハーゲンダッツ詰め合わせセットに当たりたかった)が始まる。ファンに手厚すぎるだろう。それが終わり、ふー、一門の皆さんご苦労さまでした森先生と奥さんも年に一回これを開催するってほんとに大仕事ですよね、お疲れさまでした!
と思っていたら壇上に机と椅子と、時計と記録係くんが登場してお好み対局が三局&大盤解説が始まったのであった。石本さくら二段vs大島綾華初段、石川優太五段vs柵木幹太四段、山崎隆之八段vs千田翔太七段。すごい……。
三局終わって、そしてほんとうに閉会の辞となった。今、思い出してるだけでアタマくらくらしてくるぐらいの重量級特濃イベントでありました。将棋を好きになると、こういう面白いことがあるのだ。そしてこのイベントの重量と密度をドカンと高めた、龍の目玉ともいえるのは、糸谷先生渾身のボヘミアン・ラプソディであったと、後世に伝えておきたい。そのためにこのエントリを書いた次第であります。
この歌で祝われた柵木四段、石川五段、そして森先生ご夫妻をはじめとする森一門にますますの繁栄が訪れんことを。