見出し画像

豊島紀 ㉒豊島は129分考えて次の手を指した

ABEMAトーナメントのチーム豊島のことを書こうと思ったが、『伊藤園お〜いお茶杯第64期挑戦者決定リーグ紅組5回戦、羽生善治九段ー豊島将之九段戦』があまりにもすごい対局で、身も心もへろへろになったのでその話をします。

というわけで豊島は負けちゃいました。勝負というのは勝ったり負けたりするものなので、負けた時は家の中のそのへんで倒れて気を失うぐらいなものですが、この対局は「ただ負けた」というにはあまりにもいろいろなことがありすぎた……。

朝はごくふつうの朝で、ちょっとワイルドみもあった

朝10時に対局開始して、昼休憩までは何ごともなく終わったんだ。11時前ごろに昼食の注文取りが来て(これ、中継で見るたびに「始まる前に事務所で注文するようにしとけばいいじゃないか」と思うんだけど、その日のサービスランチとかがその時間じゃないと決まらないからなのかね。あと注文してるその場でカバンから財布出して代金払ってる所帯じみた姿を見るのが好きなので、注文取りの絵は好きです)(どっちなんだよ)、豊島九段はノータイムで「チキン山椒焼き弁当」を頼み、たんたんと昼休憩に突入する。

異変は午後の対局が開始になってすぐ起きた。そこまで豊島はすべての手をほぼノータイム、消費時間17分。そして65手目、6四銀と指したところで、

ドカンと「評価値溶かした(©佐藤天彦)」

そこまで評価値は50/50ぐらいでずっと来てたのにいきなり65/35ぐらいまで落っこちた(豊島が35です)。何か読み抜けか、何か間違いか、とにかく何かが起きた。どうも研究手順で指しているうちに、想定の手順で入れないまま指してしまったらしい。この時のことを感想戦でこう言っている。「この6四銀が手拍子で、まったく駄目になってしまった」。手拍子とは「糸谷哲郎のボヘミアン・ラプソディ熱唱(いつかレポートします)に思わずわき起こる会場の熱い手拍子」の手拍子ではありません。

「手拍子」
先の展開を深く考えずに、パッと見えた手を指すこと。
一般的に、それが悪い手だった場合に言われることが多い。

将棋講座ドットコム

次の手もほぼノータイムで指した。え。評価値はさらに溶ける。羽生がやや考えて指す。あ。

その時点でたぶん豊島はミスに気づいた。

去年の王将戦挑戦者決定プレーオフでも羽生さん相手に「ひどいうっかり」をやってしまった豊島だが、「また羽生さんか!」。何か羽生には相手を間違わせる妖気でも出ているのか、それとも羽生さんを見るとつい間違えるモードが豊島に発生しているのか。

ミスに気づいたらしい豊島の姿は、藤井聡太の「ガックシ」のようなああいうわかりやすいものではない。やや背中が丸くなり、やや目が空をさまようぐらいのものだ。それなのに「あ……豊島……」と、見ている人にわかってしまうのだ。能の名人は面をかすかに伏せるだけで「慟哭」まで表現するが、豊島が対局中に「しまった」と思っている時のたたずまいは、名人のシオリのように静かにわれわれの感情をゆさぶる。

座布団の上にちょこんと座っている豊島のまわりに、微かな哀しいオーラが漂う。

しかし、そこで「哀しみの海」にぶくぶく沈みこまずに、豊島は長考に入った。まとわりついているオーラの色がゆーっくりと変わっていく。灰色がかった水色みたいだったのが徐々に明るくあったかい色になっていく(ただし光っている、というところまではいかない)

長考に入り始めたあたり。背中はまだ「やや丸」

ここからが長かった。そこまで17分しか使っていなかった、ほとんどノータイムで指してた人が、いきなり盤面だけ見て動かなくなった。指さない。いつまでも指さない。ぼんやりと明るい空気をまとったままひたすら考えている。

目が離せなくなった。しかし、ここで困ったのが中継の解説です。将棋に長考はつきものとはいえ、まだ序盤から中盤に行こうかってぐらいの局面でいきなり止まってしまった。解説の横山泰明七段、渡辺和史六段、聞き手の竹部さゆり女流四段、本田小百合女流三段、この人たちが二人組で三十分?ぐらいで交代して解説するんですけど、何回交代しても豊島はまだ考えてる。画面は動かない。待ってる羽生さんが立ってどこかにいったり、戻ってきてパタパタと扇子であおいでいるぐらいしか動かない。豊島が間違えたところまでは角換わりのふつうの流れでまだ局面が動く前、あえて解説するようなこともない。

解説陣は、「豊島がやらかして形勢を損ね、そのことに気づいてどうにかしようとしている」ことはわかってたと思う、が、豊島先生やっちゃいましたね〜、とはさすがに言えないみたいで、「じっと考えてらっしゃいます」という姿勢を崩さない、が言うことがないことに変わりはないので、雑談するしかない。ゴールデンウイークは何しましたかとか、対局中のお昼ご飯はどんなのが好きですがどれが美味しいですかとか、気を遣ってもらってるのはわかるがあからさまな時間つぶしの雑談はツラかった。もういいよ豊島がやらかしたって言ってくれてもいいんだよおお(泣)と思ったけど、「豊島先生は将棋のことを考えてらっしゃるんですかね」というのはいきなりワサビがききすぎのコメントであった。いや笑ったけど。たぶん将棋のこと考えらっしゃってたと思うよ。そういうこと言ってもらったほうが救われますけどね私は。そして、

豊島は129分考えて次の手を指した。129分。

129分て。いやー、120分あったら今年の松竹座『春のおどり』を休憩時間コミで一部二部通して見られますよ。今年の『春のおどり』は途中で気が遠くなったりしたけど、豊島の長考129分は飽きもせずにじっと見てられたから豊島先生はすごいのだ。いや、すごいのはそんなところじゃない。

致命的やらかしで、日が高いうちにこの対局終わるんじゃないかとかオレならもう投げるとか言われていたのに(解説者が言ってたんではないですネットの声です)、129分考えたところから、驚くべき粘りで評価値押し戻しましたからね。52パーセントになった時には夢じゃないかと思ったよ。それでまた25ぐらいまで溶かして(©佐藤天彦)、そのあといきなり85パーセントキターー! って、つまり羽生さんがこんどはやらかしたわけだが、上がったり下がったりもうこっちは富士急ハイランドの高飛車(ジェットコースター。名前が良い)にムリヤリ乗せられて息も絶え絶えになった気分を味わった。

富士急ハイランドの高飛車


そのあともまた上がったり下がったり、少しも見るものを落ち着かせてはくれず、

129分の長考を経て81パーセントまで押し戻す

「えっ、もしかして豊島が勝つのか? あそこから? うわああだとしたらすごい、すごいよ豊島……!」という局面があったけど、

あ……

まあ、最後は負けてしまったわけですが。豊島が投了した時には「ああこれはいいものを見せてもらった」と思った。面白かった。65手目の「さいしょのアレ」ではたいへんがっくりして「もう寝ようか」と(昼過ぎなのに)思ったりしたのに、長考に入ってからはギンギンに見入ってしまった。私が面白がっているのは、佐藤天彦が言うところの「評価値だけ見て一喜一憂」そのものであるけれど、でも「評価値とは、あくまで機械の世界の物語で、人間の目に見える将棋の世界というのはまた別の物語を綴るものだ」ということはよくわかったし、そして、私が豊島ファンとなって以来ずっと追究している「棋士の研究」について、「研究というのは単に手順の暗記に堕してしまってるんではないか」と巷間言われている問題についても、もっと考えたくなったし。今回の豊島のミスについても「だから暗記将棋は」みたいなことを言う人がいて、まあ確かにそういう側面もあるだろうがそう単純な話でもなかろうと思うので。

それと、豊島の長考中に解説者が困ってひねり出した雑談の中で、横山七段が「対局中に羽生さんはアッとかうーんとか声出したりしますけど豊島さんは声も出さないしほとんど感情を声にも表情にも出さない」と言っていた。

それは中継見ててもわかることだが、対局してる相手も実感として「豊島は感情の起伏がほとんどない」と感じるのだ。で、そんな豊島の将棋を見ると「こんなミスで負けることなどできない」という青い炎のような執念を129分燃やし続け、じりじりと相手に迫り、わずかな隙を見つけたら錐でも突き刺すようにしてゴリゴリこじ開け相手の急所に迫る。盤上で血しぶきが飛び散る。まつげ一つ動かさずそんなことやってのけるんですから。といって無表情のニヒル系ではなく、対局じゃないときは大人しくてにこにこしてるし押しも強くない。この棋風と外見のギャップのすごさよ。たまりませんね。

…………。
そんなわけで、豊島が今期、王位戦の挑戦者になるという道は潰えた。王位戦の徳島対局で渭水苑(うちから徒歩で行ける)に来てくれることも(今年は)なくなった。はじめて豊島と口をきいたときに言ったのが、

「王位戦で渭水苑に来てください」

だった者としてはつらい結果になった。でも今年の徳島対局は第五局なのでストレート決着なら徳島には来ない可能性があり、対藤井聡太でストレート決着があるとすれば藤井4勝だろうから渭水苑で藤井聡太祝勝会になってしまうかもしれないし、などと「オマエはほんとに豊島ファンか!」とつっこまれるようなことを考えて悲しみをやりすごしています。

でも豊島先生は王位リーグには残留した。来年こそは勝ち抜いて渭水苑に来てください。

熱い戦いを終えて……

(さいごにまたどうでもいい話。↑これ感想戦の模様ですけど、将棋会館の『高雄』の間、こっち側から映したら安旅館の仲居部屋みたいでびっくりですよ(感想戦は別の場所に移ったんですね、さすがにこれが高雄の間じゃねえわ)。私、よくこういう安旅館泊まるから、異様に懐かしい気持ちになった。タタミの上に薄べり敷いてあって、部屋の隅に座布団が積んであって、そんで羽生さんが壁のとこに荷物やレジ袋ドサッと置いてるのも、私がこういう旅館に泊まったときにやることそのもの! 地方の駅前商人宿に盤と駒持ってって「高雄の間ごっこ」「別室で感想戦ごっこ」やりたいぐらいだ。でも、あの羽生善治とあの豊島将之の対局感想戦ならもうちょっとマシな部屋はなかったのか。せめて座布団と使ってない将棋盤を積み重ねてあるのを片付けるだけでも……でもこの絵ヅラはコントの一場面みたいで、私は好きかも)(どっちなんだ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?