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ある暇人(狂人)の日記 最終日


 ニ◯ニ四年五月七日。朝5時にiPhoneの目覚ましがなる。今日はすぐにベッドから起きあがる。カラダが軽い。昨日、スタジオに入って爆音でギターを鳴らし、ゴブさんの力強いドラムのリズムを吸収したから、カラダとアタマが自由だ。人間の肉体を超えていく表現は音楽だけだと誰かが言っていたが、身体という膜の外に何かを響かせることは幸せなことだ。杜仲茶ラテをいれてアトリエの書斎でそんなことを考えながら、鼻で空気を四秒吸って、口から八秒かけてゆっくり息を吐く。繰り返す。吸って吐く。口から吐いた息の風を鼻から吸って、鼻の奥に風を通して喉から口へと風を吹き抜けさせる。風がぐるぐる体の中を回っている。気分が落ち着く。呼吸という風は円を描いてまわる。ドーナツの円。音楽のひびき。どれもがぼくのカラダをほぐして身体の存在自体をひろげる。チャールズミンガスのレコードに針を落とす。ミンガスのベースは子どもが空き地で遊んでいるような自由さがある。
 書斎でカフカの日記と、アンネの日記をめくり読む。カフカの日記と同様に、アンネの日記も自由だ。ナチスのユダヤ人迫害から逃れるために隠れ家で暮らしていた訳だから身体的な拘束はあった。アンネの感情自体は若さ特有の反発や不自由さもある。だがアンネは日記を日記としておらず、キティーという架空の友だち(モチーフにしてる実在の人物はいたのかな?)に向けた、架空の手紙として書いていながら、クラスメートや、母や父への違和感、夢、喜び、苦しみ、ナチスへの反発、神への感謝、性欲や、淡い恋心などを赤裸々に書いていて、小説の構造の内と外を行ったり来たりしていて、混乱してるともいえるが、日記に膜そのものがないし、絶えず毎日、混乱して動揺しながら生きているぼくには、他人の混沌を言語という小説によって感知できると安心する。混乱していても錯乱していてもいいんだと。そして錯乱したままギターを鳴らしたり、机のうえで書く(描く)と安心する。安心すると心が穏やかになる。ここまで書いて無意識に手が止まっていて、鼻毛を摘んでむしった。黒く長い鼻毛が取れると誇らしい気分になる、笑。鼻毛をゴミ箱に入れようと思ったが気分が変わり、畑の草むら中へと放った。ひらひらと鼻毛はまって小さくて見えなくなったが、地面へと落ちていった。あ! 今日から、ゆもちゃんは学校だった。忘れていた。六時五十分になっていた。朝ごはんを作りに家にもどる。ゆもちゃんはオムライスが大好物なのでつくる。にんにくをオリーブオイルで炒める。冷蔵庫の冷やご飯を取り出して、火を入れずにフライパンに入れてほぐす。塩、胡椒、酒、ウスターソースをちょっとだけ入れる。いつもは畑から大根の葉を取りに行っていれるのだが、今日はめんどくさいからやめた。ここまで下準備してから、家の二階にゆもちゃんを起こしにいく。ミワコちゃんも起きていてよく眠れたらしく上機嫌だ。にやにやしてスマホをいじっている。ゆもちゃんは起きあがるが目が開かない。抱っこしようとすると、体のチカラが入らず、またベッドに転がるという運動を繰り返している。やっとこさベッドに座り込む。まだ目は閉じている。ぼくはゆもちゃんをパッパ(おんぶのことをゆもちゃんはそう呼ぶ)して階段を降りる。ゆもちゃんは一階のコタツに入りYouTubeを観ている。ぼくはもう一度、二階に上がりゆもちゃんの制服や靴下やスクールパンツを用意する。「ハンカチは制服にあるで、マスクはない」とミワコちゃんがいうので、タンスからハンカチを取らずにマスクは用意した。健康観察カードを書いて、水筒にお水をいれる。下準備していたオムライスの続き。炒め終わったら火を止めてからケチャップをご飯に混ぜるとフレッシュな味になる。卵をフォークで切るようにかき混ぜる。弱火をかけていたフライパンに混ぜた卵を落とす。フライパンに卵を広げる。焼けるのを待っている間にさっと洗いもの。フライパンをトントンと叩き焼けたオムライスの卵をご飯に乗せる。今日はひときわ上手くできた。コタツのテーブルにオムライスの乗った皿を置くと、ゆもちゃんはうれしそう。食べ終わって着替えていたら七時五十分。八時一五分に朝の会? 的なものが始まるらしく、それまでに行かないといけないんだが、いつもは七時三十分に家を出るので今日は遅い。ランドセルと月曜日セットを車に先に入れて玄関にもどると、ゆもちゃんは帽子を被ってないので、ぼくが家まで取りにいくと、制服に入れたはずのマスクがコタツの上に置いていたので、手にとり玄関をでて駐車場にいく。ゆもちゃんマスク忘れてるで、と言うと「マスクは制服にあるよー」とゆもちゃん。「あれ? ハンカチがない」とゆもちゃん。マスクはなくてハンカチがあると言ったり、マスクはあってハンカチがなかったり、ぼくたち家族はみんなドジでトンチンカン、社会の枠では不適合かもしれないが、この小さなよりそいの中ではみんな幸せだ。ゆもちゃんを学校に送り届けて家に帰ってきてアトリエの書斎に戻ってきた。

 アンネの日記は第二次世界大戦中に書かれ、カフカの日記は第一次世界大戦中にも書かれていた。どちらもユダヤ人だ。

愛国行列、市長の演説。引き退り、ふたたび現れてドイツ語で叫ぶ。「わが愛する君主よ、万歳!」ぼくは傍に、怒った眼をして立っている。

ぼくは自分の中に、偏狭、不決断、嫉妬、そしてぼくがあらゆる悪を熱心に願うところの、戦う人びとに対する憎悪、これら以外の何ものも発見しない。

 カフカの日記より抜粋した。これらの戦争は終わったが、新しい戦争はまた生まれた。その戦争もいつかは終わるが、また悪(敵)をつくる人たちや、愛国(仲間)をつくる人たちがいる限りは戦争はなくならないだろう。もちろん戦争なんてないほうがいい。だか、ぼくが興味あるのは、戦争という最強の人間の理性を無視した状態で生まれる窮屈な統治のなかで、空想の中を自由に飛び回った日記が世界に二つも存在するということだ。いま世界は、もっとむかしみたいにシンプルに生きたいなあ、という原理主義と、お金と欲望のゲームをもっと大きくしようぜ! というこれまた原理主義との戦いに明け暮れている。あとは自分たちの権利を奪う敵であればいくらでも攻撃していいと思っている人たちと、痛みに無頓着な人との戦いはネット上のあちこちで起こっている。
 書斎の長机に、ヤドカリを飼っているガラスの器を置いている。ヤドカリたちがなんとなく元気なかったので、海水を入れ替える。エサを何粒か水の中に落とす。今日はヤドカリたち、よん匹が貝を寄せ合って水の中の砂の上にいた。小さなミジンコみたいな奴が水のなかを元気よく飛び跳ねるように泳ぐ。ヤドカリたちから新しい命が生まれた。死んでいくもの。新しく生まれるもの。ヤドカリたちはエサを取り合ってケンカしてるようにも、じゃれあって遊んでるようにも見える。
 先日、現職市議のあっちゃんからメールが来た。読み返さず記憶でかいているから間違ってたらごめんだけど、

 もうじゅうぶん、幸せになれるものを私たちにそろっているって、今日、因島で家族と楽しくすごして感じたんです。

 みたいな感じでメッセージがきた。問題やその問題を解決するための敵をつくり出さないと延命できないし、票という動員を作り出せない政治家としては致命的な意見だけど、ぼくはこんな素朴な幸せを感じることができる政治家が、因島にいや世界に一人いることを誇らしく感じている。
 すべてのゲームや戦いから降りることはできないかもしれないが、どんな時代だって幸福でいることはできる。ぼくは家族という小さな共同体と、一人の小さな孤独と、ちゃんと向き合わない限りは、戦争や社会の問題はなくならないし、もっというと小さな小さな歪みに、ちゃんと苦しみと喜びを感じられたとき、もしかすると人類は始めて戦わないというネクストステージに到達するかもしれない。
 ヤドカリたちは水面をぷくぷくとゆらす。雨があがった山には、太陽の光で燃えるような黄緑色の葉っぱと、鳥たちの鳴き声が響いている。

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